新釈 金子堅太郎伝  。。。

 


 

 

明治期の官僚政治家、金子堅太郎という人物は、なんとも不思議な人物の様です。
かの 司馬遼太郎氏による、血も涙も無い、冷酷無慈悲な、二流の官僚政治家 という評価がある一方で、日本の国難ともいえる日露戦争下では、伊藤博文の命を受けてアメリカにわたり、救国的な働きをしている という、何ともよく分からない人物、という印象がありました。
また、この金子という人は、大変な秀才で、有能な人物だったようですが、同時に真面目で勤勉、実直な性格で、自分に厳しく、他にも厳しい、まさに 秋霜烈日たる人物、と言う一面もあったようです。
そこで、私は こうした 面白く、不思議な人物像を持つ金子堅太郎について、ここに その前半生を、ノンフィクションとして まとめました。
 

  

 


 

 

  秋霜烈日の人 1.

 


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金子堅太郎

 

 目 次


序 章 秋霜烈日の人

 

第一章 嘉永六年 出生

1. 出生
2. 修猷館入学
3. 父 清蔵 死去
4. 秋月遊学
5. 太政官札 贋札事件
6. 藩内の動揺
7. 東京遊学
8. 帰国命令
9. アメリカ留学
10. 明治初年の黒田家


第二章 明治四年 留学

1. 出発前夜
2. 航海
3. 上陸 大陸横断
4. ボストン着
5. 留学生活
6. ハーバード入学
7. 学生生活
8. ハーバードの学位

 

第三章 明治十一年 帰国

1. ハーバード卒業、帰国
2. 求職活動
3. 元老院に仕官
4. 〔 政治論略 〕
5. 秋霜烈日
6. 義弟、団 琢磨
7. 憲法調査
8. 国体論争

 

第四章 明治十八年 巡視、復命、教育

1. 北海道 巡視
2. 北海道三県 巡視復命書
3. 北海道開拓建議七箇条
4. 巡視報告 提出
5. 金子の集治監視察
6. 復命書と金子の評価
7. 法学教育


 

 

 

  秋霜烈日の人 2.

 


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  序 章 秋霜烈日の人

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 江戸の末期、嘉永六年は 癸丑( きちゅう )の年でありました。

 この年 六月、相州浦賀に四隻の黒船が来航しています。

 アメリカ海軍の ペリー提督率いる、東インド艦隊のフリゲート艦 サスケハナ号を旗艦とするフリゲート艦二隻、軍装帆船二隻の 計四隻が 江戸湾口 浦賀に来航したのであります。

 二隻のフリゲート艦は これまで ほとんどの日本人が見た事のない 黒塗りの外輪蒸気船で、濛々と黒煙を上げながら 他の二隻の 軍装帆船を曳航して 江戸湾を航行する様を見た 江戸の人々は 「 泰平の眠りを覚ます上喜撰( 蒸気船 )、たつた四杯( 四隻 )で夜も眠れず 」と 狂歌に詠っています。

 物情騒然たる中、日本は 近代へ向かって 幕末がスタートした年でもありました。 

 少し後 文久、元冶のころになって、京で活動していた 勤皇脱藩の浪士たちの間で 「 彼のお人は 癸丑の人なれば ・・・ 」と云う様な 言い様があり、 癸丑の年 即ち 黒船来航の頃からの 古い志士歴の人、という様な言われ方をしていた様でありますが これは 余談。

 

 さて、この癸丑の年、すなわち嘉永六年生まれのひとりの人物について書きます。

 もう30年程も前、私が 日本の近代史を学んでいた頃、この近代史のなかで まことに興味深いひとりの人物に 出会っております。

 それは、日本の近代国家形成期に大きな足跡を残した 官僚政治家 金子堅太郎であります。

 私は、この金子ほど 歴史上の人物として 評価の分かれる人物も珍しいのではないかと思っております。

 

 金子堅太郎と言えば、当の本人よりも有名になってしまった 北海道開拓意見の中で述べた一文 「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば ・・・ 」によって、血も涙もない 冷酷 無慈悲な 二流政治家の 烙印を押されている一方で、若くして その学才を認められ、米国 ハーバード大学 留学の機会を掴み、帰国後は官途に就いて 伊藤博文の下、大日本帝国憲法の制定に尽力し、農商務大臣、司法大臣を歴任し、また 後の 日本大学となる 日本法律学校の 初代校長を勤めたりした後、国難とも言える 日露戦争下では 伊藤博文の命を受けて アメリカにわたり 対露終戦工作に 救国的な働きをしている という、何とも 不思議な人物なのであります。

 この様に、評価が 肯定的な光の部分と 否定的は影の部分の存在する 金子堅太郎という人物の実像は、果して如何なるものであるかを、私は 特に その前半生を 具( つぶさ )に眺める事で、いくらかでも 詳らかに出来れば と願って 本書を認( したた )める事としました。

 

 金子堅太郎は、幕末 嘉永六年( 1853年 )の生まれで、没年は 太平洋戦争勃発の 翌年 昭和十七年( 1942年 )と 当時としては、大変な長寿の 89歳を 全うしており、その長い生涯は 正に 日本の近代たる 幕末から 明治、大正、昭和の 近代国家形成期に重なり、その足跡は 日本政治の中枢部に 大きく残されています。

 また、大変な秀才であり、且つ 有能な人物で、その才と能が 近代日本の 国家形成期と云う 時勢の求めに あたかも ジグソーパズルに埋まる ピースのごとく 鮮やかに 合致していたのではないかと思います。

 そして、金子の場合 維新後の明治新政府における 薩長土肥の 藩閥政府において、およそ 藩閥や 門閥には無縁の 九州 福岡の黒田藩において 士農工商の身分的にいえば 士と農の中間くらいと云うか、三代前までに 新田の開発で得た自作の農から、株を買い取る事で得た士分を、父の死後の金子の相続時に一時失ってしまうような事が有ったり、という様な、士といえども実に不安定な出自ながらも、その才を旧藩主家の黒田候に見い出されて、米国のハーバード大学留学の機会を与えられた事から、その才能を開花させるための緒を掴んでいます。

 ハーバード大学の法学学位を取得しての帰国後は、近代日本の未だ漠々( ばくばく )たる 官界に職を得て後、その才と能を遺憾なく発揮して、官界のみならず 学界、思想界にまで 大きな足跡を残しており、さらに政界に転じてからは、遂に 農商務や 司法大臣にまで上り詰めながら、金子の特異さは 若干、伊藤博文との関係に濃密な部分が見られるものの、決して 誰か有力者の閥に入ってその引きを頼る、と言う様なところが無く、常に己が仕事に対する評価のみを求める事で、 己が属する社会に重きを成していた点にあります。

 

 私は、前にも述べましたが、金子の 光と影の部分を考える時、同時代の人物で、金子によく似た経歴を持ちながら、全く対照的な人物像を持つ清浦奎吾という人物を、比較、対象に 考える事があります。

 ここでは、本題である金子堅太郎の人物像を、より明確に浮かび上がらせて比較に供する為に、清浦奎吾に付いて少し書きます。

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清浦圭吾

 

 九州は阿蘇山の外輪の西側に独立峰の鞍岳という山が聳えています。

 菊池川は源流をこの鞍岳の東、オケラ山( 実在している )に発して、名勝の菊池渓谷を下りながら北へ向かい、菊池高原の西で大きく南に向きを変えてさらに下り、菊池市街の東側を通って西進し、来民(きたみ)の南で 迫間川、合志川と 合流しています。

 来民は、熊本県鹿本郡の温泉の町として知られた山鹿という街から東へ一里程の所に有り、後に明治になってから 山鹿新町と呼ばれた聚落で、そこから さらに北へ八町程の所に、明照寺という一向宗のお寺がありました。

 嘉永三年二月一四日は旧暦で、新暦では1850年3月27日、清浦圭吾はこのお寺の五男として生まれています。

 父親は この寺の住職で 大久保了思( りょうし )、母は幸(さち)。

 父親の了思という人は、仏学の他にも皇典や漢学を修めて 土地の子弟に、読書や習字を教えながら、法道を説き、また仁義忠孝の道を講じる村夫子であり、謹厳な人でもあったようです。

 父親にとって子供も五人目ともなると、感慨という様なものは少ないものの、やはり行く末、幸多かれとは思い、以前から考えていた 普寂 という名前を与えました。

 

 普 :( あまねく )

 寂 :( 涅槃( ねはん : 世の中の悩みや苦しみを去って 落ち着いた静かな境地 )に入る )

 

という様な意から 漢学の素養を持つ仏教人としての父親が見えてきます。

 幼名 普寂、後に清浦家に養子となって入り、名を改めた清浦圭吾は、元治二年( 1865年 )15歳にして豊後日田の咸宜園( かんぎえん )に学んだ後、明治五年 22歳で上京し、咸宜園時代に知遇を得ていた 当時の 日田県令( 県知事 )で この時 埼玉県令となっていた 野村盛秀を訪ね、野村の薦( すす )めで 埼玉県庁へ奉職したのを皮切りに 官途に就き、後 司法省に移り 司法官僚としての道を歩きながら 遂には 司法大臣から、第23代 総理大臣に上り詰めた人物です。

 清浦も また 大変な秀才であり、且つ 有能な人物で、金子同様 司法官僚として 藩閥、門閥がものをいった 明治の政、官界において 凡そ これらとは無縁の存在ながら その 才と能で 政、官界に重きを成し、奇しくも 没年が 金子と同年の 昭和十七年( 1942年 )で、92歳と 金子同様に 大変な長寿を全うしております。

 

 金子と 清浦の相違点を考える時、実に興味深い 対称的な人物像が浮かび上がってきます。

 先ず 金子の場合、本書の第一章以降に具に認( したた )めた 前半生のごとく、類い希な秀才の上、とにかく 真面目で 勤勉、実直な性格で 自分に厳しく、他にも厳しい まさに 秋霜烈日( しゅうそうれつじつ )の 気概を持った人物像が 見えて来ます。

 一方で、清浦も とにかく 秀才 且つ 有能な人物であり、若き日の 日田 咸宜園時代も 首席を通して 塾頭たる 都講を務め、この時に知遇を得た 初代 日田県令 松方正義、同 二代目 県令 野村盛秀らの薦めを得て 官途に就くや、埼玉県庁時代から 司法省に転職後も、その才を遺憾なく発揮し 順調に出世の階段を上っていきますが、清浦の場合 性格が陽性で

類い希な有能さと 人柄の良さから 周囲に愛され、ほぼ 順風満帆な状況で官途に就いており、他を憚り措く( はばかりおく )様な 急な出世にも 周囲から 妬み、嫉みを受ける事が 少なかった様で、実に 好ましい人物像が見えてくるのであります。

さらにもう一点、金子と清浦の対称的な相違点として、金子は 先述の様に、一貫して何れかの有力者の閥に入って その引きを頼ると云うところが無く、一方で 清浦は司法省の少壮官僚時代より、当時の長州閥の有力者、山縣有朋の閥に入って、その側近的な存在から、後には 山縣閥の後継者的な存在となっています。

 

 余談になりますが、今少し 清浦に付いて。

 清浦の 司法省 任官時は、日本が近代法治国家として 国内法の整備を急いでいた時期に辺り、司法省において 刑法 制定のための調査と、これに対応する 治罪法( ちざいほう:刑事訴訟法 )の 制定調査を行っており、清浦は 著名な 当時のお雇い外国人、仏人 ボアソナード博士のもとで フランス法を学びながら 治罪法の制定調査に従事しています。

 

 こうした 清浦の経歴から、彼の人物像を探る上での 幾つかの逸話があります。

 ひとつは、埼玉県庁に奉職時 初代の野村県令 急死後、第二代 県令となった 白根多助の下で、白根の純粋な人道上の配慮による 埼玉県の無娼県化( 県令 白根は、公娼制度に付いて これを否定し 厳しい姿勢を貫き 一時 埼玉県における 公娼の廃止に成功している )を 白根の下僚として その実務に関りながら 目の当たりにしている事。

 また、司法省において、ボアソナード博士の下で 治罪法の制定調査を行っていた当時、司法省は 東京の丸の内にあり、ボアソナード博士の宿舎もこの近くにあった様で、ある日の朝 博士の散歩中に何処からともなく 異様な人声が聞こえて来た為、これを怪しんだ博士が人に調べさせたところ、近くの 警視庁の留置場からで、取調中の被疑者の 自白を得るための拷問による悲鳴と分かり、博士は その非人道的な後進性を指摘して、即刻 これを停止すべき旨、担当部局に申し入れており、博士の指示の下 清浦らの尽力によって、この後 取調中の被疑者への 拷問が廃止されています。

 

 こうした 幾多の経験が、多感な青年時代の清浦の思想形成に 大きな影響を与えた事は 想像に難くないと思われます。

 この後、清浦は 内務省に移り 内務大臣 山縣有朋の下で、明治十九年 36歳の若さで 内務省 警保局長( 警保局は 現在の警察庁に相当 ) 兼 監獄局長に抜擢されています。

 そして、清浦は この後 人道的な見地から 司法行政における行刑制度の改革に尽力し、監獄囚徒の処遇改善のため 監獄則の改正に努め、遂に 明治三十二年の 第三回監獄則改定で それまで 北海道と 九州の集治監( しゅうちかん:明治期の大規模刑務所 )で 悲惨を極めていた 囚人の外部への出役( しゅつえき )強制労働廃止を 成し遂げています。

 

一方、金子は ハーバード留学から帰国して 元老院に奉職後、その有能さを発揮して 順調に昇進を果たしながら、この当時 全国の有志より 国会開設 並びに 条約改正に関する建白、請願が 盛んに 太政官、元老院に 提出されており、これら 建白と請願の差別、受領すべき官庁、受領の手続きなどを定める事 などを手際よく処理して、手腕を発揮しています。

 また、元老院 副議長 佐々木高行の命を受け、この頃 自由・民権論者の間で 頻りに 持て囃されている、仏人 ジャン・ジャック・ルソーの〔 民約論 〕に対抗して、保守・漸進の立場から 学説を論ずる、英人 エドモンド・バーグの著書とその要論を 一書にまとめた、有名な〔 政治論略 〕を 書き上げて 元老院に提出しています。

 

 その後、明治十七年 32歳にして、太政官 及び 元老院 権大書記官( ごんのだいしょきかん : 大書記官代理 ) 兼 制度取調局 御用掛( ごようがかり )として 伊藤博文の下 大日本帝国憲法の制定調査に従事していますが、その 翌 明治十八年、折しも この当時 重要な国策としての 北海道開拓事業が その非効率から行き詰まり 大きな政治問題となっていた事を受け、参議 伊藤博文の命により、約70日間に及ぶ 北海道巡視を行い、帰京後 太政官 及び 命令権者の 伊藤宛に〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開拓建議七箇条 〕( 本文、第四章 復命書の 三.に詳述 )を提出しています。

 そして この内の、〔 北海道開拓建議七箇条 〕の 第二条 道路開鑿の議 に おいて、金子は北海道開拓においては、物流の要となり、最重要課題の一つといえる 道内の道路網の 開鑿事業に付いて 人跡未踏の 密林伐採や、険阻な山嶺の平坦化、河川谷地の排水、架橋など、著しい 難工事となる事が想定され、一般の工夫では その労役に耐えざる可能性もあるに付き、札幌県下の 樺戸集治監( かばとしゅうちかん )及び 根室県下の 釧路集治監に収容している囚徒を この労役に服さしめる事を提案し、さらに これらの 囚徒は、固より暴戻の悪徒に付き、過酷な労役に堪えず 斃死する場合も、一般の工夫が 妻子を残して 山野に屍を晒す惨状とは 自ずと異なる事、また その 日当賃金も 一般工夫に対して 集治監の 囚徒ならば、その半額以下に 抑える事が可能である事と、今日 多数の重罪人を収容する集治監において その囚徒を 道路開鑿の 過酷な労役に服さしめる事による 斃死などで その減少をみる事は、莫大な国庫からの支出となっている 監獄費節減となる事でも有り、一挙両全の策というべし と 述べております。 

 そして、この事により 金子堅太郎 =「 彼等 固より暴戻の悪徒なれば 」の 烙印を押され、一部に 金子と云えば 血も涙もない 冷酷 無慈悲な 二流政治家の評価が定着して 現在に至っております。

 

 ここで、明治期の集治監制度に付いて、 少し書いておきます。

 維新後、明治初年より打ち続いた国内の騒擾事件から、明治十年の西南戦争終結までに、一般の罪人に加えて大量の国事犯が発生し、これらの囚徒を収容する施設の造営が必要となった明治政府は、集治監制度を創設し、既設の東京小菅監獄署を東京集治監とし、仙台の宮城県監獄を宮城集治監として改めて開設し、これらの大量の囚徒を収容していましたが、明治十一年一月 元老院に於いて「 全国の罪囚を特定の島嶼に流し総懲治監とす 」とする決議を行い、その具現化に着手していました。

 元老院決議に有る特定の島嶼とは、当時未開の北海道を指しており、本土から海を隔てた 北海道の地に 流刑、徒刑 5年以上、及び 無期刑の 重罪囚を 隔離、収容する施設を造り、これらに収容した囚徒を 北海道開拓の労働力として活用する事を意図しており、さらに 刑期の満ちた免囚を 定着させて 自力更生を図らせる事で 人口希薄な 北海道の開拓に 寄与せしめる 狙いもありました。

 こうして、明治十四年九月 北海道の 集治監 第一号として、札幌県 石狩郡 須倍都太( すべつぶと )の地に 樺戸集治監が開設され、後に 順次 空知、釧路、十勝、網走と 各地に集治監が 開設されていきます。

 

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これら、集治監の 特に 監外への出役における 惨状の記録が残されており、例えば 初期の樺戸集治監では、厳寒の冬季に 防寒具を与えずに 素足で雪中の 耕地開墾、木材伐採などの屋外作業を強制して 多くの犠牲を出した事や( この辺のところは 吉村 昭氏の〔 赤い人 〕に 詳しい )、空知集治監では、近くの 幌内炭鉱での 採炭 出役労働が強制されて、暗黒の地底監獄と恐れられ、釧路集治監では 屈斜路湖畔の 跡佐登( あとさぬぶり )硫黄鉱山において、手掘りによる 硫黄採掘が強制されたため、亜硫酸ガスにる 失明者、呼吸疾患者が続出するなどの、多大な犠牲が出ておりました。

 

具体例として、空知集治監における 幌内炭鉱の 採炭出役で、明治二十六年の 法学者 岡田朝太郎の 視察報告が残されています。

 岡田は 東京帝国大学法科大学で教鞭をとる 若き 刑法学者で、この年 司法省の委嘱を受けて 北海道の 集治監 視察を行っています。 

 この 岡田報告によると、この年 明治二十六年当時、空知集治監から 幌内炭鉱の外役所( そとやくしょ )へ出役し、採炭に使役される 囚徒の数は 常時 約一千人ほどで、坑内の採炭作業に伴う 死者を除く 負傷者数が、明治十六年が 79人、十七年が 253人、十八年に 395人と 年々増加し 遂に 明治二十五年には、実に 1595人と、夥しい数の負傷者を出している状況にありました。

 また、岡田報告では 明治二十六年夏の 空知集治監 監内の状況に付いて、それまで 幌内炭鉱 外役所への出役中に 坑内の落盤、ガス爆発などの事故で、夥しい数の死者を出していた他、負傷で 失明や不具などの 廃疾となった者が 二百六人おり、片手の無い者、或いは片足の無い者が 集治監内を徘徊して 軽役な作業に就く様子や、また 50人以上の 盲目の囚徒が 一か所に整座して 綿に付着する 塵芥の選り分け等の 軽作業に就いており、夕暮れ時には 手の無い囚徒に導かれて、杖にすがる片足の囚徒や、盲目の囚徒らが、前者の帯に縋って 獄舎へ帰っていく様を見て 酸鼻の情に堪えず と記し、さらに 岡田は 集治監 囚徒の採炭出役は、懲戒の限界を超えた 死の懲役であるとして、その労働条件の緩和を強く訴えています。

 

 清浦、金子の二人は 実によく似た経歴で、日本の近代国家形成期に 大きな足跡を残しており それぞれが この日本の 困難な時期に 実に広範な分野で 活動の実績を残していますが、特に司法行政における 行刑制度改革の中で 集治監制度の 囚徒処遇問題に対する対照的な関り、例えば 金子に付いては、彼の 秋霜烈日的な 主義主張と、超の字が付く程の 合理的な考え方からすれば、国策遂行のために 獄囚に対して 苛烈な外部出役労働を強いる事を求めて、明治十八年の〔 北海道開拓建議七箇条 〕において「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば 」などと 述べている事も 金子なればこそ 宜( むべ )なるかなと 思われますし、一方で 清浦は、官途に就いた若き日より、埼玉県令の白根多助や 司法省で治罪法 調査時の ボアソナード博士らの 人道主義的な薫陶( くんとう )を受けて後、先述のごとく 内務省 警保局長 兼 監獄局長として 囚徒処遇の改善問題に取り組み 後には 司法大臣として 遂に 監獄則の改定を行って 囚徒処遇問題を大きく改善させています。     

 この様に 二人の有力司法官僚によって企図された 対照的な行刑政策によって 大きな影響を受けた北海道、九州の集治監( 九州では、三池炭鉱における採炭労働が強制され、多くの犠牲者が出された 三池集治監がありました )の 現場の人々や、延十数万人にも及ぶと考えられる 当該の囚徒たちに付いては、別の機会を求めて 世に問いたいと考えています。  

 

 さて、そこで 何故に この二人の秀才司法官僚の、こと この行刑制度の改革問題について この様に対照的な関りを持つに至ったか について考える時、私は 二人が学んだ 法学という学問に 根本的な相違が有った様に思います。

 清浦は ボアソナードの下で 実学としての法学を学び、金子は ハーバードにおいて 学問としての法学を学んだ、その結果が 大きく影響しているのではないか と考えています。

 そして、金子の場合、例えば お茶の水女子大の 藤原正彦先生( 〔 国家の品格 〕の著者 )の品格の問題流に考えてみると、欧米の法学を 学問として学んだ結果、すべての行動規範に於いて 論理、合理を 至上としており、これは 元々 金子の持っていた性向にに加え、多感な 七年間の青少年期を アメリカのハーバード留学で 学問としての法学を 集中して学んで 過した事によるのかと思います。

 さらに 金子に付いて、例えば 有馬温泉の湯治の帰路に遭遇した、人力車夫とのトラブルにおいても その処置は 妥協を許さず、不条理なものに対する 秋霜烈日の気概が見え( この 車夫らとのトラブルについては 本文 第三章の 五、に詳細を記述 )、この様な 金子の根本思想から考えれば  先述の〔 北海道開拓建議七箇条 〕の 一文「 彼ら、固より 暴戻の悪徒なれば 」に付いても、なんら非難を受ける筋合いのもので無い として、例えば 後年の 司馬遼太郎氏等の 人道的非難など、直接 金子が聞いていたとすれば、一喝して 論駁したのではないかと思います。

 

 また この点に付いて私は、金子にしてみれば明治十八年に「 彼ら、固より 暴戻の悪徒なれば 」の一文を含む 〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開発建議七箇条 〕を 太政官 及び 伊藤参議宛に提出した時も、後の大正五年に この 復命書 及び 建議七箇条を、復刻、再刊せしめた時、そしてさらに、子爵に叙せられて 枢密顧問官の職に有った 大正十四年夏、北海道庁 開設四十周年記念式典に寄せて〔 北海道庁設置の沿革 〕の一文を寄稿した時期においても、これら 金子の秋霜烈日的な 気概は、些かも変わっては いなかったのではないか と考えており、本書において 金子の生い立ちと その 前半生に、多くの紙片を割きましたのは、この辺を審らかにしたかった事に有ります。

 

 本書においては 金子の出生からの前半生を 具に眺める事と、その残した 数々の事績の中から 先ずは 官途に付いてから〔 政治論略 〕を執筆して 思想界に大きな影響を与えた点、また 現 日本大学の前身たる 日本法律学校の初代校長として 日本の学界、特に 法学教育に残した事績、 さらには 先に上げた 有名な「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば 」の一文を含む、〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属の〔 北海道開拓建議七箇条 〕を 政府に提出して、後人に 北海道の開拓憲法とまで言わしめている事などを 詳細に眺める事で、未だ 謎とも言える部分の存在する 金子の歴史的な評価に付いて、本書拙文が些かなりとも光を当てる事が出来ましたならば、まことに 幸甚に存じます。

 


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  秋霜烈日の人 3.

 


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  第一章   嘉永六年 出生

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1. 出生


 嘉永六年、癸丑の年 二月四日は、西暦 1853年3月13日であった。

 この日、金子堅太郎は 筑前国 早良郡 鳥飼村 字 四反田に、父 金子清蔵直道、母 安子の長男として生まれている。

 幼名を徳太郎。

 この年、父 清蔵は二十八歳で、福岡藩の勘定所に小者として勤仕していた。

 金子家は、三代ほど前に 新田開発で得た田畑を持つ 自作の農から、蔵米取りの 小人組の株を買う事で、筑前の国主 黒田家の 微禄 末席に連なっている。    

 生地、鳥飼村は 福岡城の西方、大濠に接した一帯で 士農工商 雑居の地ではあったが、農が少しと 僅かの工商の他は、地の利も有り もっぱら藩政の実務を担う 少禄の家臣群の住まう聚落であった。

 金子家は また 数代前の 自前の作農時代から 代々 勤勉・倹約家が続いた事も有り 裕福な家で 長男 徳太郎 後の 堅太郎も子供の時分から 近在の学塾で 漢籍を学ぶ傍ら、師を求めて 謡曲、仕舞いなども習っており、また この当時 藩命で大阪に在勤していた、父 清蔵が 論語、孟子、大学、中庸、小学、十八史略、史記、左伝、詩経などといった漢籍一式や 源平盛衰記、太閤記、駿台雑話、太宰純著経済録、夢想兵衛物語などの 書籍を購入して 送って来た とあり、まだまだ 書籍一般が高価だった時代であり、当時 藩士の子弟で 漢籍を読む時は 藩校の修猷館から 官本を拝借するのが一般的で、自家にこれらを所蔵するのは 極めて稀で、学塾の師からさえも 羨ましがられていた とある。     

 

 

2. 修猷館 入学


 堅太郎の 福岡藩においても、藩士子弟の教育の場として 藩校 修猷館( しゅうゆうかん )が設けられていた。

 修猷館の 館制では 出自、身分に応じて 学舎への昇降口、控えの間 等が 峻別されており、試験を受けて 進級するに及んで 徐々に その差別を無くして行く制 としており、入学当初 堅太郎は 父 清蔵が「 半礼 」という身分で 正規の士分と成っていなかった為、控えの間での 控え時などで 差別を受けていたものの、後に 父が「 役中直礼 」という 正式な士分へ昇進となり、藩校 修猷館での 差別を受ける事の無い 士分の待遇となるが、それはさて置き 堅太郎の 学業、成績は 頗る優秀で 順調に進級して 常に首席を通している。

 

 この頃、時勢は激しく動き始めており、風雲は急を告げてきている。

 元冶元年七月に 禁門の変、翌 八月には 米英仏蘭 四カ国連合艦隊による 下関砲台砲撃事件が起き、隣国 長州の騒擾に 福岡藩も 波奈と 須崎に 新たに砲台を築いて外国船の襲来に備えている。

 元冶二年は 四月に 改元されて 慶応元年と成るが、堅太郎の 福岡藩に於いても 藩論が 沸騰し、藩士が 勤皇派、佐幕派に分かれて 城下で 血生臭い争闘を繰り返しており、重職の御用部屋頭取 牧 市内( まき いちない )の暗殺や、城下の米商 大惣の主人を殺害し 城門に梟首する等の 事件を起こしているが、七月に入って、遂に 佐幕派の 野村東馬、浦上数馬、久野一角らが 藩権を掌握し 一気に 勤皇派の捕縛、粛清を行い、対立する勤皇派 執政 加藤司書、建部武彦 ら 六名を切腹、その他 下位の者 九名を 斬刑に処している。

 後に 乙丑( いっちゅう )の獄 とよばれた事件で、この時 堅太郎の同族 平山 某も咎めを受けて入牢している。

 余談になるが、この時の粛清時に 明治に入って後、堅太郎が 明治政府の少壮官僚として 官命を受けて 北海道の開拓状況 巡視を行った折、石狩の 樺戸集治監( かばとしゅうちかん : 北海道に造られた 大規模刑務所 )での 囚人の出役状況等に付いて 聴取を行った 同監 前 典獄( てんごく : 刑務所長 ) 月形 潔の 叔父にあたり、それまで 京などで 勤皇の活動を行っていた 月形洗蔵( 新国劇の戯曲 月形半平太のモデルとされている )が 刑死している。

 

 さて、堅太郎。

 少年ながら 真面目、勤勉な性格で 修猷館 入学以来 早朝から 深夜にまで 勉学に励む毎日から 遂に体調を崩して 食物を受け付けなくなり、衰弱が甚だしくなって来た為、医師 横地道順の 薦めで 一時 修猷館 通学と 一切の勉学を止め、療養をした後、同じ 鳥飼村在住の 鉄砲指南役 林 吉六に師事して 鉄砲射撃の稽古を始めている。

 この時代、人は 些細に見える病でも あっけなく死んでしまう事が珍しく無かった時代で 家人の計らいで この様な処置をとれた 堅太郎は 命拾いをしたものと云える。

 

 この 鉄砲射撃 稽古では 陽光の下、外気に触れて 新鮮な空気を吸った 堅太郎の若い身体は みるみる 快復し、翌 慶応二年 春には 修猷館への復学を果たしている。

 この後も、堅太郎は 修猷館での成績は優秀で 相変わらず 首席を通しているが 真面目、勤勉な堅太郎は 学業の優秀さから 自負心で 傲岸( ごうがん )不遜となり、他の 顰蹙( ひんしゅく )を買わぬ様 自らを戒めている。

 

 

3. 父、清蔵 死去


 慶応四年は 明けて早々に 鳥羽・伏見の戦いから 戊辰戦争 勃発と成り、京都朝廷より 徳川征討令が発せられる事となる。

 ここに来て 福岡藩に於いても 京都の朝命を受けて 藩政の方針を一変し、二年前の政変で 藩権を掌握していた 佐幕派の 執政 浦上、野村、久野らが 失職の上、切腹を命じられている。

 この年、九月に改元されて 明治。

 こうした中、最下級の藩士で この様な 藩の動揺にも無縁の 堅太郎の父 清蔵 直道が 病を得て 四十三歳にして 死去する。

 この時、父 清蔵 直道は 福岡藩において「 役中直礼( やくちゅうちょくれい ) 」という身分で これは 父 清蔵が 現在の 勘定所頭取扱という 役職に有る間、士分に取り立てられる という身分で、この後 昇進すれば「 一代直礼 」( 一生涯士分 )、から さらに「 永代直礼 」( 永世士分 )となるが 「 役中直礼 」で死去のため  十六歳で 家督を相続した 堅太郎は 士籍を失う事となる。

 

 この当時の 金子家の 家禄に関する記録が残っている。

 金子家が 三代ほど前に 蔵米取りの 小人組の株を買う事によって得、父 清蔵が相続していた世禄が六石と二人扶持で、父 清蔵の 精勤で得た、藩 勘定方 下僚( 勘定所頭取扱 )の役料 五人扶持 十五石を合わせて、七人扶持 二十一石に 二年おきの大阪勤番 手当と 役職がら それなりの 役得等も有った様で、勤勉・倹約家の家系で 蓄財も有り、小身ながらも 父 清蔵の 在世中は それなりに 裕福な生活だった様である。     

 しかるに、父 清蔵 亡き後、家督を相続した 堅太郎は 父の得ていた「 役中直礼 」での士分という身分と 勘定所頭取扱の役料 五人扶持 十五石を 一気に失う事になる。

 この為、向後 これまでの生活の維持が困難に成る事は固より、さらに 困窮する事も予想されるに付、近縁の者たちより 三十九歳にして寡婦となり、老母と三子一女を残された 母 安子に対して 再縁の話などが持ち込まれるが、一家はこれを謝辞し、父の残した遺金 二百両( 現価 約千二百万円 )を持って、足軽 銃手組 峰岸 某 死後の株、二人扶持 六石を買い求め、堅太郎に相続させる事により世禄 二人扶持 六石と合わせて 四人扶持 十二石と成し、なんとか 生計の維持が成り立つ 目途を得ている。      

 これにより、この後、十六歳の 堅太郎は 銃手組に編入され、兵卒として 銃砲大頭役所の使番( 給仕 )として 勤務を始める事となる。

 

 

4. 秋月遊学


 戊辰戦争は いまだ 行方定まらず、函館での戦争( 五稜郭の戦い )が続いていた。

 福岡藩も、一朝 事あるに備え、藩兵が 各所の砲台、神社仏閣に屯営して 英国式の軍事調練に励んでいたが、堅太郎の属する 銃手組も この時、鳥飼八幡宮に屯営して 調練を行い、堅太郎も 兵卒として 昼は 調練を受けながら、夜は 隊長の命令で 同僚の兵卒に 漢籍の講義を行ったりしている。

 この当時の 日本の士農工商制度における 士族という支配階級では、最下級の 兵卒( 足軽階級 )クラスでも 機会があれば この様に 漢籍読解などの、百姓、町人の通う寺子屋などで教えるのとは 違った学問に 取り組んでいる様子が 興味深い。       

 

 この様な日々を送る 堅太郎の下に、ある日 時の月番家老 林 丹後より、明朝 十時 御館( おやかた )に罷り出ずべし と云う 命令書が届く。

 さすがに 堅太郎も 何事かと 動揺して 隊長、ほかに尋ねるが、固より 誰も分からず。

 御館とは 福岡藩制では 藩主親臨の政庁で、士分以上の 御用召し時に登庁する場所と成っている。

 最下級の一兵卒 堅太郎に、月番執政から 直接 御館出頭の命令は 只事ではない事が 堅太郎にも良く分かる為、隊長の許しを得て 兵営を抜け、藩校 修猷館教授 正木昌陽を訪ねた処、正木先生 喜んで曰く。

 今や日本国は 王政が復古し 維新の新政 成って 人材登用の時に当たり、我が 福岡藩に於いても、藩校に於いて 成績優秀な貴君を 士籍に進め、支藩 秋月藩の藩校 稽古館へ 遊学の推挙を 修猷館督学 竹田貞之進から 藩庁へ 上申していたので その御沙汰があるものと思う。

 との事で 

 堅太郎は感激して 正木先生、ほかの教官の厚情に 謝意を表して 帰宅した。 

翌日、正装して 御館に出頭。

 月番家老 林 丹後より

 

  「 年来勤学出精致候付永代士籍に列し秋月藩遊学被仰付

      学費として年々米拾俵被下渡 」

 

の辞令を受ける。

 これで、堅太郎は 十七歳にして 父を超え、「 永代直礼 」( 永世士分 )の身分を得る。        

 また、藩校 修猷館の学制では、初級を西寮で学び 試験を通過して、南寮に進み さらに 試験を通過して 時計の間に進み、時計の間では 成績優秀者が 試験を通過して 北寮に進むか、あるいは 藩費を持って 支藩 秋月の稽古館 遊学を命じられる場合があり、今回 堅太郎は 時計の間詰め 首席として、その優秀な学業を認められて、支藩 秋月の稽古館 遊学を命じられたものであった。     

 さらに 秋月 稽古館で 成績優秀を認められれば、江戸の 幕府 官学、昌平黌( しょうへいこう ) 遊学の道も開かれるが、この時は すでに江戸幕府は無く、昌平黌も無い。 

 

 この時期、時勢の変動に相俟って 堅太郎とその周囲の変転も 目まぐるしい。

 秋月 稽古館 遊学中の六月、堅太郎の祖母が没し 忌中休暇を取って帰福するが、この帰福中に 藩校 修猷館に於いて 大改革がおこなわれる事と成り、堅太郎は 秋月遊学 三カ月にして これを免じられ 修猷館への復学を命じられている。

 これは 福岡藩も藩として、この難しい時勢を乗り切る為の方策として、藩内の俊英 五十名を選抜して 修猷館に集め、これまでの 藩士子弟の一般教育とは別に、藩政全般をを担う 次代の人材育成を図る事と成り、当然ながら 修猷館で首席を通した 堅太郎も この選に入れられたものであった。

 この 特別選抜の 修猷館学生 五十名は 藩庁の方針で、全員を入寮させ 文を講じ 武を練らしむ として、文武併せての 研鑽を成す事となる。

 また、ここでは 出自、身分による隔てを 一切行わず、上は 家老・執政の子弟から 下は堅太郎の様な 最下級の藩士子弟までが、所謂 同じ釜の飯を喰う事で 藩の次代を担う若者たちの 上下の関係を 風通しの良いものにしておこう という計らいであった。 

 この時、堅太郎は 家老 毛利家の長男 万太郎と同室と成り、二人一組で行う 炊事当番をこなすに当たり、飯炊きの経験など無い 万太郎に便宜を図り 感謝されたりしている。

 

 この様な 修猷館での生活の一日、堅太郎は 同僚の三名と 博多の学友を訪ねて 近くの料理店で飲食した折、帰寮の門限が 過ぎてしまう失態を犯している。

 この時は 門を閉ざされてしまった為、塀を乗り越えて自室に入り 就寝しての翌朝、寮監より厳しい叱責と 訓戒を受けている。

 この件に付いては、これまでの堅太郎の行いと、この後の 長い長い 堅太郎の人生に於いても、とにかく 有能 かつ 実直、真面目な性格で およそ 道を踏み外して 人の誹りを受ける事など あまり無い様な 堅太郎の人生に於いて 珍しい事件ではあった。  

 

 何事においても 真面目に取り組む性格の 堅太郎は、子供の頃から 日々一貫して漢籍や ほかの学問に 取り組む傍ら、子供時分には 謡曲、仕舞いなどの習い事や、修猷館入学後は 身体を丈夫にする目的もあって 鉄砲師範 林 吉六の門で 鉄砲の射撃を習っており、また この 修猷館 再入学後は 撃剣の練習に励んでいるが、これらには 何れも 目ぼしい上達、成果は上げていない。

 にもかかわらず、こと 学問に関しては 頗る 優秀で、十一歳で 藩校 修猷館に入学するまでに すでに 九歳から 城下の 正木昌陽 私塾の門下で 論語、他の素読を習っており、修猷館では 本来 西寮に入学して 論語、孟子、大学、中庸の素読を習って 試験を通過して後、南寮へ進むところを いきなり 南寮へ入学を許され、随時行われる 試験でも 成績は優秀で 常に 首席を通しており、約一年後の 十二歳にして 上級の 時計の間に 進級を果たしている。

 

 この頃、本人の述懐によれば、学業が進むにつれて 学問への興味が増してゆき、早朝から 勉学に熱中して 深夜にまで 及ぶ事があった と有るが、この 時計の間 在学中に、先述のごとく 本務の銃手組調練中に 藩庁呼び出しを受け、支藩 秋月の稽古館 遊学を命じられ、さらに 藩校 修猷館の特別選抜 五十名の中に選ばれて ここに至っている。

 

 

 5. 太政官札 贋札事件


 この年、福岡藩にして 容易ならざる事件が勃発する。     

 太政官札 贋札事件である

 七月、明治新政府の検察機関 弾正台( だんじょうだい )から 大忠( だいさかん:検事 ) 渡邊 昇が 多数の捕吏を伴って来福し、諸方の探索後 城内の贋札製造所を囲み、贋造に関係する 職人、属吏を尋問して、福岡藩 権大参事( ごんのだいさんじ ) 小河愛四郎、他 執政クラスの責任者 数名を捕縛して 小倉裁判所へ連行している。

 

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 この事件は、慶応四年五月 発足間もない 明治新政府が 旧越前藩士で 新政府の参与兼会計事務掛 由利公正の建議により 戊辰戦争の戦費調達と 疲弊した財政の立直し、及び 唯一の統一政府として 全国流通通貨の必要から 政府の信用を担保とする 不換紙幣 太政官札を発行し 各藩に対し その石高に応じた 引受を強制したもので、福岡藩では 五十一万両( 現価にして 約 三百六億円程 ) の引受けを行っているが、この当時は まだ 戊辰戦争の真っ最中で 新政府優勢とはいうものの、江戸では 上野戦争の最中で有り、奥羽列藩同盟が健在 という様な状況に、実際 新政府と旧幕勢力の 確たる勝敗の帰趨が見通せない中、もし 新政府側が負ける様な事になれば 引き受けた 太政官札は 紙切れとなってしまう為、福岡藩のみならず、各藩とも 執政ら 財政担当者の この太政官札の扱いに対する悩みは深かった。

 そこで 福岡藩は 引き受けた 五十一万両の太政官札を 額面の約半額で放出し 金貨に変えてしまう処置をとる。

 が、そうこうしている間に 新政府軍は 北越戦争、会津戦争を終結させ、最後まで抵抗した庄内藩を降伏させて、残るは 函館に拠る 旧幕軍のみと成って、ようやく 大勢が決してくると、情勢の判断を誤って 藩庫に 二十数万両の 穴を空けてしまった 福岡藩 執政らは この穴を埋めるために 太政官札の 贋造を行い、藩境付近で行う 他国との取引の決済に 盛んに使い始める事になる。

 実際、太政官札といえども 紙幣としては 江戸期を通じて 各藩が発行してきた 藩札と変わる処が無く 贋造自体は 容易で 福岡藩のみならず、実際は 多くの藩で 贋造が行われた様である。

 

 この時期、前年の明治新政府による 版籍奉還で、隣国 豊後の 幕府天領だった 日田地方が 翌年の廃藩置県を待たず、ひと足早く 旧幕府の代官所を廃して 新政府直轄の日田県と成り、県知事として 薩人 松方正義が着任していた。 

 松方は 自県内に流通する 太政官札に不審を抱き 探索の結果 隣国 福岡藩による 藩ぐるみの 太政官札 贋造をつかみ 新政府に告発している。

 太政官札 贋造では、先述のごとく 多くの藩で行われていたが、何故 福岡藩のみが 糾弾されたのかについては、明治新政府による 一罰百戒的な スケープゴート説があるが、別の見方として 福岡藩の場合、先の 乙丑の獄事件で 藩内の勤皇派が一掃されており、現 新政府の要路に ほとんど人脈を持たなかった事が 挙げられている。

 事件は この後、福岡藩 家老職相当の 大参事 郡 成美、同 立花増美が 小倉裁判所に 召喚された後、東京へ 檻送されている。

 こうした中 福岡藩庁は、既に 隠居の身ながら 僅かに残っていた 旧勤皇派の老臣で、新政府に重きをなす 薩摩の西郷隆盛に知己を得る 元家老 矢野梅庵を、この時 東北戦争を終えて 鹿児島に帰省していた 西郷の下に 使者として派し、執成し( とりなし )、救済を嘆願している。

 これを受けて、西郷は 小倉に赴き 弾劾責任者の 渡邊に会うが、情状が悪すぎ 如何とも成し難く 事態は 好転するに至っていない。         

 その後、福岡藩 筆頭家老職相当の 大参事 矢野安雄に 弾正台より 召喚状が届き 藩内は 藩主家に 類が及ぶ事を恐れて 動揺するが、矢野 大参事 出立の前夜、堅太郎らの所属する 修猷館から代表者らが 矢野の下を訪ね、藩主家へ累を及ぼす事の無き為、責めを一身に受けての 割腹を勧めるが、矢野は 東京での 申し開きに自信を示し、割腹の勧めを拒んで 東京へ出立する。

 

 

6. 藩内の動揺


 この後、藩庁の命により 修猷館に於いて 塾長以下 塾生全員が この問題に関して、類が藩主家に及んだ場合の 対応について、一週間の熟考後 討論会を開き 意見の集約を図って 上申する事と成る。

 この討論に於いては、ほぼ 全員の意見が、大挙して 京( この時期 新政府は東京に有るが、明治天皇 及び 朝廷が 京に在り )に上り 朝廷に嘆願して、藩主家への処分取り消しを訴え、成功せざる時は、黒田家三百年の恩顧に報いる時 として、福岡城に立籠もり 城を枕に討ち死にも可なり と云う 過激なもので有ったが、これに対してただ一人 堅太郎が 末席から 反対の意見を述べている。

 曰く、今日 鎌倉以来 天皇の親権を 簒奪( さんだつ )してきた 武家政権の最後 徳川幕府が滅び、ここに 維新が成って 天皇親政たる 朝廷が復活しており、今日 我が国において 君主は 天皇御一人なり、しかるに 我ら 天下万民は すべて天皇の直臣にして、我らが 藩主 黒田候といえども 天皇の重臣たるが 臣下成り。 ここに 朝廷より 如何なる 勅命のお沙汰が あろうとも、これを奉ずるが 我らが務め成り。

 仮に 我らが藩主家の公職( この時、昨年の 版籍奉還後 藩主は 新政府任命の 藩知事と成っていた )を 免じられるか、あるいは 僻遠( へきえん )の地に 遷任( せんにん ) の沙汰など有るとも、我らは 勅命を奉じつつも 三百年の藩思を思い どこまでも 藩主家に付従い 黒田家の家政に勤仕して 旧恩に報ずる途も有り。

 諸君の意とする処は、壮快なれど 結果、藩主家の 御身まで危うくする 不忠の道ならんか。

 堅太郎の この意見に対しては、賛同する者 一人も無く 一座は白けて、修猷館の塾長・教員に至るまで 一言も発する事無く 散会になったと有る。

 

 後々、堅太郎は 演説を得意としており、政府の要職に就いてからも 数々の 演説録を残し また 日本でのみならず、後年 アメリカに於いて 日露戦争の終結工作を 外相 小村寿太郎を援けて行っていた時など、アメリカの世論を 親日の方向へ導くために 盛んに アメリカ各地で 演説会を行っており 一定の成果を上げている。

 が、この時の 堅太郎の発言は 謹直な堅太郎らしく 信ずる処を正論として 正面から吐露しているものの、この時の藩校側の 実際の討論の目的としては、この場で結論を出す事を求めておらず、藩主家に 一朝事有らば、一致団結して当たる 決意表明と 壮行会的な 謂わば 決起集会の趣としており、如何にも この時の 堅太郎の発言は 壮行的な場の雰囲気にそぐわず、座を白けさせている。

 堅太郎には 謹直な上、頗る 頭脳明晰なるが故か、時折 こうした 今風に謂えば 「 その場の、風が読めない 」ところが有り、結果 言行が偏狭に走ってしまう場合が 垣間見える。                      

 この後、しばらくは 堅太郎も 修猷館で 居心地の悪さを感じている。

 

 この頃、時勢から 修猷館では これまでの 漢学一辺倒を改め、加えて 和学者を雇用しての 古事記、日本書紀の講義を始めている。

 堅太郎も これを受講して 平田篤胤、本居宣長らの 和学に接し、初めて 真の日本の歴史と 国体の尊厳に付いて 識ったと記している。  

 また 知人から借り受けた 「 弘道館記述義 」を筆写して、藤田東湖の 敬神崇儒、尊王攘夷、忠孝無二などの 後期水戸学の思想に触れ 感銘を受ける一方で、これまで 漢学の勉強一筋で来た 堅太郎は洋学、特に 語学としての 英語にも興味を持ち始めており、十八歳の 若き 堅太郎の学問探求は 未だ 悩み多き様相を呈する。

 

 

7. 東京遊学


 この頃、福岡藩庁に於いては 修猷館の選抜した俊英 五十名から、さらに選抜して 藩費による 藩外への 留学生派遣を決めている。

 これは 先の 乙丑の獄による 特定の思想の徒 一掃などの事件があると 結果として 藩自身の孤立化を招くなどして、太政官札贋札事件に見られる様な 藩を窮地に貶める様な事態もある事への反省から 人材を、広く 中央のみならず 他藩へも 留学生として派遣し 将来の人脈づくりに 資する とするものであった   

 

 この時の 選抜留学生は 東京遊学が 堅太郎 他 一名、鹿児島藩に 修猷館 特別選抜制で 堅太郎と同室となった 家老 毛利家の嫡男 万太郎 他一名、山口藩が 加藤堅武 他 二名、静岡藩が 石田篤麿 他一名 となっている。

派遣先として 東京( 新政府 )、鹿児島( 薩摩 )、山口( 長州 )、静岡( 大政奉還後 徳川氏に認められた 七十万石の藩 )と、何か 見え見え的な感 無きにしも有らずか。 

 この件にて 十一月、修猷館の 堅太郎の下に 藩庁より 登城の命が有り、時の 月番執政より、堅太郎は 他の一名と共に 東京への遊学を命じられている。

 この時は、堅太郎の 私塾時代からの師で 修猷館 入学後も 修猷館教授として 指導を受けていた 正木昌陽先生にも 藩から 東京学事視察の命があり、堅太郎は 上京時 昌陽先生に 随する事となる。  

 

 十一月末 藩船にて 福岡出立、大阪を経て 年末に 東京 霞が関の福岡藩邸 着。

 この当時 福岡藩の 東京留学の藩費学生は 漢学生、和学生、海軍練習生、洋学生 と居り、それぞれに 学費月額 十両が給せられたとある。

 開国後の 経済的な混乱も有り、貨幣価値の下落傾向にあった 当時としても 月額十両の給費は かなり恵まれていると言え、当時の 福岡藩に於いて これらの学生への 期待の大きさが 知れるところである。  

 この当時 幕府の昌平黌は 既に無く 新政府の文部省によって 大学南校( 英語教育 )と 大学東校( 独語教育 )が創られており、福岡藩 洋学生は この両校のどちらかにて学び、和学、漢学生は夫々が 私、家塾を選んで入塾し 学んでいたが、堅太郎は 過って 昌平黌の中博士で 廃黌後 伊予松山藩 大参事を務めながら 三田に学塾を開いていた 漢学者 藤野正啓の塾に入塾している。

 この頃、藤野塾での生活は 夕方 五時頃まで勉強した後、銭湯に行き 帰途 近傍の 鰻屋や 鳥屋 または この頃 流行りだしていた 豚料理屋に寄って 夕食を摂って 帰ったとあるが、この頃までは 藩費からの充分な給与で 恵まれた 遊学生活を送っていた。

 

 後に 堅太郎は 自らの自叙伝で この当時の事を 回想しているが、ある時 同塾の朋輩と 三田の往来を散策中、外国人数名を乗せた馬車が通りかかり、前後を 旧幕臣と思われる 帯刀した騎馬の士が 数名 警衛していたが、往来中の 老若男女が 珍しい外国人という事で 馬車の周囲に 集まりだしたところ、突然 馬車を御していた 外国人が 鞭を使って 周りの 老若男女の 顔と云わず 体と云わず 散々に 打ちのめして 追い払う様を目撃し、堅太郎は 憤激のあまり 思わず 腰刀に手をかけるが 匹夫の勇と戒めて 手を離すも、当時の外国人は 如何に日本を蔑視したるか と述懐している。     

 藤野塾での堅太郎は、詩作 では目立つ事も無かったが、作文では 師の藤野から 再三の 賞賛を受けている。

 

 こうした中、七月に入って 弾正台より 昨年の 福岡藩 太政官札贋札事件の糾問が ほぼ 結了して 処分が発せられ、藩知事( 藩主 )黒田長知が 藩知事を免じられて 閉門蟄居、大参事 矢野安雄 他 主だつ 四名が 大伝馬町 牢屋敷にて 斬罪に処せられ、関係した藩吏 吉村藤蔵 他 五名が 流・徒刑に 処せられる事で 終息に至っている。    

 

 これにより 福岡藩には 新たに藩知事として 有栖川宮熾仁親王( ありすがわのみや たるひとしんのう )が 任じられ 佐賀藩兵を率いて 福岡入城となり 黒田藩は改易( かいえき : お取り潰し )となるが この 僅か 十日余り後、廃藩置県の詔勅が発せられ 全国の藩はすべて廃されて県となり、藩主はすべて華族と成って 東京在住を命じられる事となるが、こうした中 藩主 黒田長知は 閉門を解かれた後 華族に列せられており、結果として 福岡藩太政官札贋札事件は その責任追及を 旧藩主家にまで 及ぼす事無く 終息している。

 

 

 8. 帰国命令


 この後、有栖川宮新知事による 新体制の福岡県庁より 前の 福岡藩藩命で 上京遊学中の 藩費留学生の内 洋学生を除く全学生に 帰国命令が出され、これまでの 給学費の停止はもとより 一週間以内に 帰国の途に就かざる者には 帰国の旅費も給せず との申し渡しがなされる。  

 ここにおいて、堅太郎は 身の振り方を熟慮した結果 帰国命令には従わず、苦学となるを 覚悟の上で、在京して勉学を続ける事を決意し、将来を考慮して 洋学 特に 語学としての英語を学ぶ事として、金子の一族で 東京府に在職して 大属( だいさかん )の 地位にあった 平山能忍( ひらやま よしとし )を訪ねて 相談する。   

 平山も ここで 県庁の命に従って 帰国すれば、この後 貴君も 田舎に学塾などを開く 村夫子的な 生涯を送る事にならんか、ここは 一念を発起して 在京し勉学を続ける事 大いに良し として、寄る辺を失った 堅太郎に 一時の食住を提供する。 

 

 こうした頃、堅太郎は 過って 慶応三年に 藩命を受けて 米国に留学していた 平賀義質( ひらが よしただ )が 帰国し 司法省に 勤仕して 権中判事( ごんのちゅうはんじ )を 拝命している事を識り、平賀の下で 学僕となりして、特に 英語を学ぶべく希望を 平山に話し、平山の交渉で 平賀の承諾を得、堅太郎は 霞が関の 平賀邸に 起居して 学僕として 仕えながら 英語の勉強に励む事となる。

 平賀邸での 堅太郎は、師の平賀より アルファベットから習い始め、単語を覚える事に 日々を費やしながら、平賀の 司法省 出仕時は 師の弁当箱を持って扈従( こじゅう )し、師の勤務時中は 司法省内の供待所で待ち、午後三時の 退省時には 玄関の敷台で 師の退出を土下座をして待つ と云う様な生活を 送る事になる。

 司法省の供待所では、各司法官に扈従する 若党、草履取り、馬丁等が 博打に興じたり、猥談に花を咲かせたりしていたが、堅太郎は 一人片隅で 英語の単語を 憶える事に 時間を費やしていた。

 後に 堅太郎は この当時を回想して、今は 草履取りとして 土下座して 主人を待つ身なれど 粉骨砕身努力して、いつの日か必ず この司法省に 土足で出入りする身分に成ろうと 堅く心に誓ったと 自叙伝に書き残している。

 

 

 9. アメリカ留学


 平賀邸で こうした生活を送り、四か月ほど過ぎた 十月末のある日、司法省からの帰途 突然 師の平賀より、こうして 君に供をさせるのも 今日限りだが、長々と御苦労であった と 言い渡される。

 驚いた 堅太郎は 師にその理由を問うに、師 曰く。

 この度、岩倉右大臣を首班として、政府から 大規模な 遣欧米使節団を派遣する事となり、この一行に 旧黒田藩主家より、若き 当主の 長知( ながとも )公が、米国へ私費にて留学の為に 随行する事となった。

 ついては 老公( 前藩主 )、長溥( ながひろ )公の ご意向で、君に 長知公と共に 米国への留学が命じられる。

 よって これから 君は 私に同道して 黒田邸に赴き 老公に 拝謁すべし と。

 

 突然の あまりの事に 堅太郎は 言葉を失うが、師の 平賀に同道して 福岡時代には 雲上の人であった 前藩主 長溥公に拝謁する。             

 平伏する 堅太郎に 長溥公 曰く。

 この度 長知を 米国留学に遣わすに当り、同行の者として これまで 長知の側近くに勤仕して来た者では、如何しても 家来のごとく心得、長知の 修行に宜しからず、よって この度の 同行者には これまで 長知の 側近くに 勤仕の経験の無い 金子の同道を 欲するものである と。

 さらに。

 米国留学中は、何年かかったにしても 学費はすべて 当家より給するに付き、必ず 一科の学問を成して帰朝し 皇国の官吏となって 国家に尽くすべし と。

 この様な望外の事に、堅太郎は 驚き 戸惑いながらも、翌月の出発への準備に 慌ただしい日々を送る事となる。 

 

 この時 堅太郎と共に、黒田家の私費にて 黒田長知に 同行留学を命じられた者が、平賀義質の下で堅太郎と共に 英語を学んでいた 団 琢磨( だん たくま )であった。

 団は 安政五年の生まれで、この年 十三歳であった。

 また、この時 老公 長溥の諮問に 平賀は 米国での留学先として、自身の留学先であった事と、旧福岡藩から 藩費留学生として渡米し、現在は 黒田家からの私的援助で 留学を続けている 井上良一、本間英一郎の 二名の学生が滞在する マサチュ― セッツ州 ボストンを 推奨した事で、黒田長知、金子堅太郎、団 琢磨の三名の留学先は ボストンに決している。

 

 

 10. 明治初年の黒田家


 九州 筑前福岡 黒田家五十二万石は 有名な 官兵衛 孝高( かんべえ よしたか )が 豊臣秀吉に仕えて身を起こし、その長子  長政が 関ヶ原の役で 徳川家康に従い、役後 この大封に 封ぜられた事から 始まる。

 前藩主、第十一代 黒田長溥は 文化八年、1811年、同じ九州の薩摩 鹿児島藩 第八代藩主 島津重豪( しげひで )の 十三男として生まれ、文政五年、 1822年 黒田家 第十代 斉清の長女 純( すみ )と結婚、婿養子となり、天保五年、1834年 養父 斉清の隠居で 黒田家の家督を相続している。

 現藩主( 明治二年の版籍奉還で 藩知事と成り、廃藩置県後は 華族 黒田家の当主 )の、第十二代 黒田長知は 天保九年、1839年 伊勢 津藩主 藤堂高猷( とうどう たかゆき )の三男として生まれ 嘉永元年、1848年 黒田長溥の娘 理玖( りく )と結婚、婿養子となり 明治二年 1869年 養父 長溥の隠居で 黒田家の家督を相続し、この時に至っている。

 この 明治四年当時、老公 長溥は 五十八歳で 健在、現当主 長知は 二年前に家督を相続し、三十二歳の 黒田家当主では有るが 家付き娘の婿でも有り、あらゆる実権は 岳父の 長溥の下に有った様である。


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  秋霜烈日の人 4.

 


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  第二章   明治四年 留学

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1. 出発前夜


  ここまで、本書の主人公を 堅太郎と 名前で呼んできたが、この年 八月の 福岡県庁よりの 給費留学生 帰国命令に際しての 果敢な決断や、敢えて 平賀家の学僕の道を執るなど しっかりとした 現状認識と 目的意識を持つまで 成長した 金子堅太郎に 敬意を表して、ここから 姓の 金子で呼ばせていただく。

 

 米国出発前の 金子は、何かと慌ただしい日々を送る。

 そうした一日、金子は 団 琢磨と共に 黒田長知の供をして、文部省許可の外国留学生に 慣例として 命じられる 宮中 賢所( かしこどころ )の 参拝を果たしている。

 これは、宮内省に出頭して 賢所に拝し、階下で 土器にて神酒をいただき 土器を拝受して帰る としており、明治二年の 東京遷都から わずか二年の 、明治四年のこの時点で すでに この様な 儀典的なシステムまでが 形を整えつつあり、明治新政府の 政治システムが、着実に、急速に 定着しつつある様子を 知る事が出来る。 

 また、この頃 金子は 黒田の老公( 前藩主 黒田長溥 )に 何くれと無く 目をかけられていた様子で、洋行の準備と云う事で 長知、団と共に 洋装の服、靴など 一式を 横浜から 英国人の洋装師を招いて 調製してもらったり、渡米後の為に 西洋料理に 慣れる事も必要として、一日 築地の 西洋料理店で 西洋料理の送別宴を開いてもらったり、はたまた 長知を通して、団と 二人に 金鎖付き金時計を賜っている。   

 金子は 後に、当時 金時計と云えば、大名 それも大藩出の 華族ら以外 なかなか 持てる様な物では無かったと 回想している。

 

 さて、この度の 岩倉遣欧米使節団は、当時の日本として 相当に思い切った規模の 使節団を組織しており、この年 十一月 岩倉大使 以下 総勢 百十余名が、米国籍の 汽帆船 アメリカ号を借り切って、先ずは 太平洋横断の旅に 横浜から 出航している。   

 使節団は 特命全権大使に 岩倉具視と 副使に、参議 木戸孝允、大久保利通、 工部大輔( こうぶだいふ : 工部省の上級次官 ) 伊藤博文、 外務少輔( がいむしょうゆう : 外務次官 ) 山口尚芳の他、官僚、軍人、旧大名家の華族、公家出の華族等 多彩を極めており、また 北海道開拓使 長官 黒田清隆の建言で実現した、開拓使の官費女子留学生として 後の津田塾大学 学祖となる 津田梅子ら 五名も含まれていた。  

 また 岩倉大使の 米国での案内役として、当時の 駐日アメリカ公使 デロング夫妻が 娘と共に 同乗していた。  

 

 この 使節団 乗船の アメリカ号は、排水量 四千五百トン超の 当時 アメリカ 最大級の 新鋭 外側輪 汽帆船で、ニューヨークの造船所で建造され 米国の 太平洋郵便蒸気船会社が サンフランシスコ - 横浜 - 香港間を 定期運行させていたものを、この時 使節団渡航の為に 日本政府が借り切っていた。

 船は 木造船ながら 大変に大きな船で、上等の客室のみで 約百人を収容でき、その他 大部屋的な雑居船室には 合わせて千人以上の乗客を 収容出来た とある。

 

 

2. 航海


 十一月十二日、アメリカ号は 横浜港を出航した。

 船が 観音崎沖にかかる頃、この先の 大洋に出でての 万里の波涛と、行く先 米国での留学への 期待と不安の錯綜した気持ちから、金子は まさに 「 辞本涯 」( じほんがい : 弘法大師 空海の遣唐留学時 日本を辞する時の言 )の境地であった。

 この船中、出港当初は 伊藤博文ら 洋行経験のある一部の者を除いて、金子ら ほぼ 全員が船酔いで ベッドから 起き上がる事も出来ずに過すが、外洋に出て 三日後くらいから ほとんどの者が 少しずつ 船の動揺にも慣れ、ようやく甲板上に出て 新鮮な空気を吸い 食堂で 食事を摂る事が 出来る様になっていった。

 金子ら 三名は 上等船室の一室を占有していたが、金子にとっては 同行の 黒田長知は 主筋であり、団も お坊ちゃま育ちで まだ子供である為、殿様( 黒田長知 )の靴磨きから 着物の世話まで何かにつけて 雑用などをこなしながらの船旅であったが、下級士族の出で、旧藩時代の下積み勤仕や 平賀家での学僕生活の経験もある 金子には それ程 苦にはならなかった様である。

 この時、黒田長知は 三十三歳、金子が十九歳、団が 十三歳であった( いずれも 数え年 )。

 この時の事を、団は「 僕などはホンの小僧っ子、金子が 十八か九、殿様に接する事はまるで分らぬ。殿様は実に困ったろうと思います 」と、後に回想している。

 

 さて、金子の 回想から 船中生活の様子を いま少し。

 ほとんどが、洋式の生活など 露知らぬ輩を 百十余名程も乗せた アメリカ号の船内では、これも 伊藤ら一部を除いて、食事時に 洋食のマナーなどに頓着する者など無く、船員はおろか 支那人のボーイにまで あきれさせる、あまりの 有様に、外国生活の経験のある 平賀義質が 伊藤と図って 洋式食事マナーを 図示したものを 作成し、岩倉大使より 回状せしめる事で ようやく 食事時の 食堂も落ち着いたが、太政官書記官で 今回 使節団の理事官の一人 久米邦武が、平賀ごときが 我らに 洋食マナーなど 教えを垂れるとは 不埒千万、拳骨を喰らわしてくれる とか、息巻く始末であった。

 久米は 旧佐賀藩士で、この時 三十三歳。

 後、東京帝国大学教授で、「大日本編年史」など国史の編纂に尽力する歴史学者であり、同郷の大隈重信と親交がある。

 この様に、学者然とした 久米の様な人物にして この様な有様が、時代の沸騰する 維新の回天から わずかに四年、未だに 人物も沸騰 冷めやっていない様子を 垣間見る事が出来る。              

 久米は この欧米視察からの 帰国後「 特命全権大使 米欧回覧実記 」をまとめ、太政官に提出している。

 また、岩倉大使らは 自若として 食堂の一角に 座を占め、木戸、大久保など 碁客を集めては 囲碁に 明け暮れする様子であり、これらも また 時代を代表する 大物たちの 大物然とした所が また 興味深い。

 

 この船中、金子の回想に 度々 伊藤博文が登場する。

 ある日、金子ら書生連に 伊藤より 甲板上に集まるべし と 回状が有り、何事かと 集まった 書生連に 伊藤 曰く。

 昨夜、便所前の広間にて 大便を成した者あり、これは 国辱ものであるから 以後は 便所内の便器で成すべし と、これに対して 書生中の 何某かが、伊藤副使の 仰る 大便を成したる者は 我ら 書生連とは限らず、船中設備を知らざる 上の人々かも知れず と申し上げたところ、伊藤は 苦笑して 尤も、尤もと言って去ったとある。

 はたまた、ある日 船旅も 何日か過ぎて 乗船する面々も いくらか 船に慣れてくると 晴天の日など 甲板上に出て 暇に明かした 団欒なども楽しみになってくるが、団欒中の議論、快談中は 常に 伊藤が 中心になり、周りに 外務官僚の 野村 靖や 福地源一郎など、多くが囲んで 談笑しており 金子ら書生連も 傍らで これらを 聞くのが 楽しみであった と 回想している。

 

 今少し 伊藤について。

 伊藤は この後、明治期の政治家として 輝かしい経歴を重ね、日本の近代史に 大きな足跡を残すが、この 明治四年時点の 僅か 数年前の幕末 動乱期には 俊輔と呼ばれ、短期間ながら 長州 萩で吉田松陰の 松下村塾に学び、松陰の刑死後、聞多と呼ばれていた 後の 井上 馨と共に 勤皇倒幕の士として活動し、佐幕派の国学者 塙 次郎らの暗殺をしたり、井上と共に英国に密航して 一年ほど 彼の地で暮らしたりしている。 

 この 密航時の船中と 英国での生活は 重労働を課されたり、鞭うたれたりの 殆んど 奴隷に近い扱いであったらしいが、奴隷と違っていたのは 米英仏蘭 四カ国連合艦隊による 長州藩攻撃が近いと 伝え聞くや、井上と共に 帰国を決意して 俄かに 主人を脅し上げる様にして 金品を調達し、帰国の途に就いている事で有り、従順な学僕と思い込んでいた 二人の東洋人に 突然 脅し上げられた 主人はさぞ 驚いた事であろう。  

 

 この時の横浜出航時、伊藤らと同行した 総勢五人の一人、山尾庸三の日記から 長州五傑等の話が伝わっているが、伊藤、井上が 山尾らと同行したのは、当時の上海まで( 洋装の五人が写った有名な写真は 上海で撮影されたもの )で、その後は 全く別行動をとっている。

 ついでながら、五人の内 後に明治政府の顕官と成った 伊藤、井上の他 山尾庸三ら 三人は 英国留学から帰国後、山尾は工部省で 次官を務めて後、長官の工部卿まで務め、遠藤謹助は 造幣行政に携わり 造幣局長まで務めており、井上 勝は 鉄道行政に携わって 後、日本鉄道の父 と呼ばれる等、明治期の日本近代化に それぞれ実務分野で貢献している。

 さて、伊藤。 

 英国からの 帰国後 高杉晋作の 奇兵隊に参加して、江戸幕府による 第一次長州征討後の 長州藩の幕府に対する 恭順論から 倒幕論への 藩論の転換に奔走し、高杉の 病没後は 木戸( 当時 桂小五郎 )の下で 堪能な 英語を駆使して 外交交渉の場などで 木戸を支えるなどし、維新後は 木戸と共に 新政府で 重きを成して ここに至っている。

 

 何はともあれ、維新後の 新政府に重きを成している連中では、岩倉にしても 三条にしても 薩摩の大久保、西郷にしても、長州の 木戸らにしても、何れも 陰性の 印象が濃い中、殆んど 唯一 伊藤のみが 陽性の印象が濃厚に有り 常に 周りに人を集めている。

 話は飛ぶが のちの後、伊藤が 満州のハルビン駅頭で テロリストの 凶弾に倒れた時、三十分ほど 息が有ったと伝えられているが、この時 伊藤の脳裏に 若き日の 国学者暗殺の愚行を思い 因果は巡る と云う考えが浮かんだかは 定かでない。

 

 さて 船旅の途中は、太平洋の真ん中で 日付変更線を 西から 東へ超える事となる。

 金子らを乗せた アメリカ号は 明治四年十一月十二日に ここを通過し、翌日が 十四日になる事を聞いた 金子は何故かと 訝しみ その理由を 乗船中の学者連に尋ねるも 明快な答えが得られず、不満を漏らしている。

 横浜を出港して 二十二日目、出港当初は てんやわんやであった アメリカ号の船内も 日付変更線を越える頃からは すっかり落着き、この日 十二月六日 早朝、アメリカ号は サンフランシスコの金門湾に入り、二十一発の礼砲を受けて サンフランシスコ港に接岸した。

 

  

3. 上陸、大陸横断


サンフランシスコでの 金子ら 岩倉使節団一行は、ホテルに分宿して、市内有力者の歓迎宴や 市内の見物などに日を費やしているが、金子の 初めての米国の印象は 特に 商店の繁華、馬車鉄道、街路を行き交う人々、などが 目を見張るもの と回想している。  

 こうした一日、金子は 黒田長知、団 琢磨と共に 平賀に伴われて 遊郭の見学に出かけている。

 遊郭では 明るい ガス灯の照明の下 着飾った女性が 客を誘引する様が、日本の 品川や 新宿と変わらず と回想しているが、登楼したかまでは 記録していない。

 この サンフランシスコでは、会津人 西川友喜、及び 桑名人の 多勢 某と云う 二人の日本人が 黒田長知を訪ねて来ている。

 二人は 会津、桑名の藩士として、戊辰戦争で 新政府軍と戦った事から 賊軍となった事を恥じて 日本を脱し、米国にて 身を立てんと サンフランシスコで 米国人の下で労働に従事している との事で、黒田は 平賀と謀って、西川を 通訳として雇入れ ボストンまで 同行させる事としている。   

 

 サンフランシスコに 二週間ほど滞在した後、岩倉大使一行は 貸切列車にて カリフォルニア州 州都の サクラメントに向かう。

 サクラメントでは、カリフォルニア州知事の 岩倉大使一行 歓迎晩餐会にのぞんで、翌日 いよいよ 鉄道での 大陸横断の旅に出発する。

 この当時、アメリカでは 東海岸のニューヨークと 西海岸のサンフランシスコ間に 大陸横断鉄道が開通しているが、途中の シェラネバダ山脈や ロッキー山脈の 峻嶮な 山岳越えが有り 特に 冬季は 積雪によって 一時的に不通になる事も珍しくなかった様である。

 この時も、岩倉大使一行の 貸切列車は ロッキー山脈の手前に差し掛かったところで ロッキー山中の積雪で 通行不可の電報を受け、ソルトレイクシティーで 除雪待ちを行う事となる。

 

 金子の回想によれば、当時の ソルトレイクシティーは ユタ州の州都なれども、極めて 貧弱、狭隘な街で ホテルも一軒しか無く、岩倉大使ら一部のみ ホテル宿泊とし 他は 列車の寝台を ホテル代わりにして、結局 ロッキーの 山岳越え 開通まで 十八日間を ここに滞在する事となった と記している。

 ソルトレイクシティーは モルモン教の本部のある町として知られ その 壮麗な 本部教会堂と 大管長 ブリガム・ヤング の邸宅における 一夫多妻の生活を見聞しているが、大管長 ブリガム・ヤングは この当時 十数人の妻を持ち、数十人の子を成していた とあり、また その邸宅は、一妻と その子女ごとに、一棟を建て 並べて 所有し、外部から 一見して 多妻同棲の様子が知り得ていた とし、日本にも 実質 一夫多妻と謂える蓄妾の習慣は有るが、あくまでも陰の存在としており、金子は 米国には 奇怪なる宗教ありと 驚きを 記している。

 

 明けて 明治五年、旅の途中の 金子は 二十歳となる。

 正月を 金子ら一行は ユタ州 ソルトレイクシティー郊外に 停車中の列車の 寝台起居で迎える事となる。

 この時は、つい 数年前まで 日本有数の大大名であった 百万石の 旧前田候、五十二万石の 旧黒田候( 黒田長知 )に、三十五万石の 旧鍋島候ら 殿様連も 金子ら書生と同様に 不自由な 列車生活を余儀なくされており、元日のみ ホテルにて 岩倉大使の招きで 新年会を催したと語っている。

 

 一月十四日、ロッキー越え可能の 連絡を受けて ソルトレイクシティーを出発し、ロッキー山脈に分け入るが、金子は その雄大な群巒の景色に 感嘆の念を記している。

 この後、列車は ロッキー山脈を越えて アメリカ中西部の大平原を ひたすら東に向かって進んで行くが、列車が この 無限の荒野の停車場に停まると 何処からともなく 近傍の原住民( アメリカインディアンの人々 )が現れ、粗雑な品々を 売りに来た と記している。

 これらの人々について 金子は 次のように記している。

 

 「 其の容貌は野蛮の情態にて銅紅色と真黒の頭髪とは白哲人種に対照して頗る奇怪なり 」と。

 

 大平原を ひたすら走って、一月二十四日 列車は シカゴに到着する。

 シカゴ 到着時、岩倉公の子息で 当時 ニューブランズウイック市に留学に来ていた 岩倉具定と その随員が 出迎えに来ていた。

 この時の事を 金子は、ご子息 具定は、父の 岩倉公が 右大臣の正装たる 衣冠束帯と髷の姿に 大いに驚き、速やかに 断髪して 洋装に改めざれば、米人をして 日本より見世物が来たと 喜ばすのみ と諫めるものの、岩倉公は天皇より 全権を委嘱されし身なれば、右大臣たる 正装 改むる能ず と 拒むが、子息 具定は されば 我らは これより 父公の通弁役を断る と再度 諫るに、ようやく 岩倉公も 断髪して 洋装に改めたり と記している。

 

 余談をひとつ。

 岩倉具定は 岩倉全権の次男で、嘉永四年十二月( 一八五二年一月 )生まれで、この時 二十一歳。

 戊辰戦争では 父 具視の代理として 征東軍に従軍している。

 慶応四年三月の官軍による 江戸城 総攻撃の二日前、十六歳で 征東軍の東山道軍司令官となって中山道 武州蕨宿の陣営にいた 具定は、幼い折に近侍しており、この時 先の十四代将軍 故徳川家茂に降嫁していた、皇女 和宮の 筆頭侍女 玉島の訪問を受け 和宮よりの親書を受け取る。

 和宮は 先に亡くなった 十四代将軍 徳川家茂の 御台所( 正妻 )として、江戸市街を 戦火から守るための嘆願を 親書に認めていたものであったが、時勢の大きなうねりの中、先帝( 孝明天皇 )の皇妹といえど、一個人の願いが 曲折を経た後、勝 海舟、西郷隆盛の会談を経て、江戸城無血開城へと 実を結んでいく。

 この折、若き 岩倉具定が、幼き日を思い 六歳年上の 皇妹 内親王に 何を思ったか 定かではない。     

 

 シカゴにて 金子らは 黒田長知に従い、首都 ワシントンへ向かう岩倉大使一行と別れ ニューヨークへ向かう。

 ニューヨークでは 旧福岡藩時代に 藩命でアメリカ留学に来て 現在 ボストンのハーバード大学 への 入学準備中と云う 井上良一が迎えに来ていたのに会い、ニューヨークに一泊後、さらに 汽車を乗り継いで ボストンに向かい、ボストンでは 今一人の 旧福岡藩 藩費留学生 本間英一郎の 出迎えを受ける。

  

 

4. ボストン着


こうして 黒田長知、金子堅太郎、団 琢磨の三名は、横浜出航後 約二ヶ月半をかけた 大旅行の末無事に 目的地 ボストンに到着した。

 この 大陸横断の旅では、黒田が平賀と相談して サンフランシスコで 通訳として 雇い入れた 会津人 西川友喜を 大変に重宝したと 記している。 

 それにしても、江戸幕府の終焉と 維新による 明治新政府の樹立から 何年も経ていない この時期に すでに アメリカ各地に 多数の日本人労働者や 留学生が入り、それなりに 日本人間の ネットワークが 出来上がっている様子を知る事が出来る。  

 

 ボストンでは 金子ら それぞれが 下宿屋に落ち着いた 一日、岩倉使節団の 理事官の一人として 岩倉大使に同行して ワシントンに赴いていた 平賀義質が 金子らの 向後の勉学方針を定める為 ボストンに来ている。

 この時 平賀は、出発前に 老公 黒田長溥より受けた指示から、黒田長知については すでに 齢 三十を過ぎてもおり 語学としての 英語を身につける事と、出来る限り アメリカでの 見聞を 大きく広めた後に 帰国する事とし、金子と 団については、何年かかろうとも 一科の学問を修むべし との 長溥公の意向に沿うべく、先ずは 学校にて 英語を学ぶところから 始めるべし と定めている。

 これによって、金子と 団は 小学校から 中学、大学へと 一貫した 完全なアメリカの学校教育を 受ける事となる。

 

 これより前、金子と 団は 黒田家より 学資金として 一年分 金貨で各千圓ずつを 横浜出航前に外国銀行へ為替として 入金してもらっており ボストンの銀行支店にて 必要に応じて引き出す事としていたが、この 千圓について 少し考えてみると、この当時の千圓を 平成二十五年時の 現価に換算して 日本銀行の『明治以降卸売物価指数統計』での概算 約参百八拾萬円程となるが、一般 庶民の感覚的な 重みとしては 壱千萬円を 優に超えていると思われ、二十歳の金子と 十三歳の団の学資として 日本とアメリカの物価水準から 一概に論ずる事は出来ないにしても、日本 出発前に 金子と 団が 賜った高価な金時計の事と合わせ考えても 当時の 旧大名家の 豊かな財力が知れる。    

 

 これより、ボストンにおける 金子と 団は、市立の高等小学校の女性教師宅に下宿を定め、この 女性教師 ジャセー・アリスンの 勤務する 高等小学校へ、他から来ていた 日本人留学生 吉川重吉、田中貞吉 二名と共に 第四学年に 編入学する事となる。

 吉川は 旧岩国藩主 吉川候の弟で 田中は その随員であった。  

 

 この当時のアメリカの 公立学校は、二年制の初等学校( 六、七歳 )から 六年制の 高等小学校( 八 ~ 十三歳 )に進み( ここまでが義務教育 )、さらに 三年制の高等学校( 十四歳 ~ 十六歳 )から 大学へ進む制度となっていたが、それぞれ  飛び級の制度があった様である。

 高等小学校 入学後、ここでも 金子は 成績 頗る優秀で、この年 九月、十月の各月末試験で 首位となり、わずか二ヶ月で 第四学年を通過して この月 第三学年に進級している。

 さらに 翌 十一月、十二月の月末試験でも首位で、科目は 読本、算術、地理、作文とあるが 小学校の試験といえども アルファベットから習い始めて 一年足らずである事と、実際 金子と 同時に編入学した 他の三人も 相当に優秀な成績を上げていた様であるが、この時点で まだ 第四学年に留まっている事を考えると やはり 金子の 抜けた秀才ぶりを知る事が出来る。

 

 

5. 留学生活


 翌 明治六年、ボストンの冬は 雪が積り 寒さが厳しく 通学は難渋するも、金子は 一月、二月の月末試験でも 成績優秀につき 第二学年に進級しているが、この時 団ら 三人も一足遅れで 第三学年に進級している。

 この 第二学年では さすがに 成績優秀な子もおり 金子も 首位を通す事は出来ず 時に 二位、三位に 甘んずる事もあった と語っている。

 

 こうしたある日、ワシントンより 駐米公使の 森 有礼が ボストンを訪れ、ボストン市学務委員長 チャールス・フリントと共に 金子らの学校を視察している。    

 この時 森は 金子ら 成績優秀な 日本人留学生に満足の意を表すと共に、次の様な訓示を行っている。

 日本の将来は 諸君らの双肩に懸かっているが、現在の日本語は不完全で 日本を 文明国の域に達せしめるためには、将来 思い切って日本語を止め、現在の英語を 多少 日本向けに改良した 謂わば 「 ジャパニーズ イングリッシュ 」を作成して これを日本語とする必要がある。

 また、日本人種 そのものを 改良する必要もあり、その為 日本人は 積極的に アメリカ人との婚姻を進めるべきである と。

 これに対して金子は、随分と突飛な意見を吐くものと 内心 あきれ、述懐している。

 この頃、森は 実際に 米国人の女性と結婚を考えていた様であるが、これは果たせず、帰国して後に 有名な「 契約結婚 」を行って 世間を驚かせたりしながら、後々 文部大臣まで上り詰めてからも、さすがに 日本語を止める話は語っていない。

 

 六月に入って 金子は 第一学年に進み、団ら 同僚留学生や 下宿先の家族らと避暑に出かけたりの 学生生活を楽しみながら 米国社会にも溶け込み、社交的な金子は  多くの知己を得ている。   

 この頃、金子は 米国留学 一年経過の節目にあたり 将来の修学すべき 学問専科を定める必要があり、日本が 四囲 海に囲まれた海国であるに付 海軍兵学校への入学を志す事とし、懇意の医師に相談するが 医師曰く。

 診察したところ 特に悪いところは無いが、さりとて 特別 頑強な体でも無いので 特に 海軍を目指すべき家柄でもなければ、他の専科を考えては如何か と。

 こうした事から 金子は 熟慮のすえ 自身の父が 福岡藩の藩政に関係した縁を考えて、法科大学への入学を目指す事とする。                    

 九月に入ると、団が マサチューセッツ工科大学 入学を目指すため、ボストンを去り ウオーバンに転居して 予備校へ通う事となり、金子は 一人 アリスン家で下宿しながら 翌年の 高等学校 入学の準備に没頭する事になる。

 

 明けて 明治七年、この頃になると 英語力の付いてきた金子にとって 学校の授業内容自体は 然程のもので無い為、高等学校では 第一学年を飛び越えて 第二学年編入学を目指す事とし その受験対策として 特に 代数、英米文学、フランス語を アリスン女史に学び始め、この年 九月には 目指す ボストン公立高等学校 二年次編入試験に合格している。

 この少し前、二月のある日、金子は 激しい 頭痛と悪寒に見舞われ 高熱を発して倒れ 医師の診察を受けるが 悪性の風邪と診断されて 数日間起き上がれず 自身で 腸チフスを疑っている。

 実際、これより少し前 親交のあった ハーバード大学の 法科留学生 名和道一が 腸チフスで客死している為、さすがに 金子もこれまでかと 弱気を発したと記している。

 この時の 臥床療養は 一ヶ月半にも及び、何とか快癒して 登校出来る様になったのは 四月に入ってからだった。

 この当時、米国の公立高等学校制度では、在学中の三年間 毎週一回 軍事調練が課されており、予備役の軍人が来校して その指導に当たっていたが、維新前に福岡藩で 兵卒として英式調練を受けていた経験のある金子には 然程 苦にはならなかった様であるが、少年時代に 専門の 銃師範について 元込め、施条のミニェ―銃で射撃を学んだ 金子にとって、調練に使用する銃が 旧式の 先込め、無施条の ゲベール銃であったのには閉口した と語っている。

 

 翌、明治八年 高等学校 第二学年の授業の内容は さすがに 高度になってきており 金子も 昼夜 十分に勉強しないと 付いていくのが 困難となって来ており、高等小学校当時の様に、成績を 常時、首席を通す様な訳にはいかず、二位から 五位の間くらいを 昇降していた。

 七月に入って 夏季休暇となり 避暑に 下宿先のアリスン家族と 団を加えて ニューハンプシャー州の山間に出かけているが、ここでも 金子は 英文学、数学、物理、化学、鉱物学、仏語、独語、米国憲法、行政法などを 猛勉強をしている。                  

 また、この頃 金子は 勉強の合間に 演説の 研究と演習に努めており、演説の内容はもとより 発音、音調、抑揚、姿勢などについて 具に研究して 練習に励んでいる。

 後々、金子の演説上手は 良く知られる処となるが、特に 英語での演説の資質は この当時に培われている。

  

 

 

6. ハーバード入学


  明治九年、この年 金子は 二十四歳となり、二月の 高等学校三年次の科目履修も 半年間を過ぎた頃、六月の卒業を待たずに 高等学校 退学を決意する。

 これは、九月のハーバード大学の 法科入学を目指すにあたり 卒業までの 残り四ヶ月間を 法科入試に関係のない 数学、物理、化学、鉱物学などの履修を止めて 直接必要な 憲法学、行政学、ラテン語の勉強に 集中したいという 金子らしい 合理的というか、実利的な考えで、校長 エドウイン・シーバーに 退学を申し出ているが、校長 シーバーは 是非 六月まで留まって卒業すべし、と奨めてくれるが 金子は 肯んじずして 退学する。

 この後、金子は 猛勉強に励む事になるが、憲法学や行政学の他、古典法を学ぶ為のラテン語などの机上の勉強のみならず、裁判所組織や、裁判実務の勉強にも励むため、伝を求めてボストン市内に開業する、ヘンリー・スイフト アンド ラスル・グレイ共同法律事務所に 毎日通い始める。

 

 そして、この年十月 金子は ハーバード法科大学に入学する。

 こうしたある日 文部省の 官費留学生として すでに ハーバード法科大学で学んでいた 小村寿太郎が 下宿に訪ねて来て 留学費用節約のため 下宿の同宿を持ちかける。

 これを諾した 金子は 小村と ケンブリッジ市に一室を借りて 同宿を始めるが、「 同一の寝台に 二人共眠して 大学に通いたり 」と 金子は 回想している。

 図らずも、後の後 日本国 存亡の大国難と言える 日露の戦争時 アメリカにおいて 救国的な働きをする二人が、若き この当時、共に ハーバードで学び 同宿、同衾していたとは、何はともあれ 歴史は 面白い。   

 この頃 ハーバードの在学生では ボートや 野球、室内体操など クラブ活動で 何らかの運動に励む事が 一般的であったが、金子と小村は 相談して、夕方の 五時から六時の間に 一時間、雨が降ろうが、雪が降ろうが、勉強中であろうが、例え 何が有ろうと 市内の散策をする事とし、実行している。

 このおかげで 二人共 体が丈夫になると共に ケンブリッジ市内の地理を熟知出来た、と記している。       

 

 ハーバード入学後、金子は 法学という 修学すべき 学問専科が定まった事もあって、猛烈に 法学の勉強を始めているが、大学の正課として ラングデル学長による 契約論、グレイ教授による 土地法、エイムズ教授による 私犯法 及び 訴訟法、サヤー教授による刑法と 学びながら、正課以外にも ローマ法の研究成果をまとめた ヘンリー・メイン著の〔 古代法 〕、ルイス・ヘンリー・モーガン著〔 古代社会 〕、ジョン・ラボックの〔 文明史論 〕などの修学、研究に 集中的に取り組んでいる。                  

 特に モーガンの学説に付いては、有色人種、取分け アメリカの先住民族であるインデアン種族に対する 明らさまな 白人種の優位性を主張する 人種差別論であるが、この時 金子の受けた影響は、その後も長く 金子の意識の 深層に定着していたものか、晩年 金子自身が回想してまとめた 自叙伝の記述から、本書でも引用している、明治五年 岩倉使節団に同行しての鉄道による アメリカ大陸横断の旅時、 列車が 荒野の停車場に停まった時に見た 近傍の原住民( アメリカインディアンの人々 )についての記述「 其の容貌は野蛮の情態にて銅紅色と真黒の頭髪とは白哲人種に対照して頗る奇怪なり 」と記している事からも、とりわけ大きなものであった事が知れる。     

 

 こうした頃、文部省の 官費留学生 伊澤修二が ボストンから 金子を訪ねて来て、グラハム・ベルという 奇妙な発明家( 金子談 )を紹介する。

 この時、金子は 伊澤に誘われるままに、ボストン市の 北の方の 下宿屋の三階の 粗末な ベルの住居を訪ね ベルが 完成させたばかりの 電話機を見学している。

 ベルは 電話機を説明するにあたり 一方を金子に 一方を伊澤に持たせて 互いに 日本語で会話をさせるが、いずれも 明瞭に聞き取りが出来たと 語っている。  

 この後 曲折を経て、世に普及した 電話機のおかげで ベルは 世界的な大富豪となるが、金子は この時の縁で ベル家とは 終生 親交があり、後々 ベル夫妻が 世界旅行の途次 東京に立ち寄った際に アメリカ公使 バック主催の 政界、財界からの 招待客を集めた 歓迎晩さん会の席上で、ベルは 発明された電話機で 最初に話された外国語は、今日 ここにお見えの 金子司法大臣が 若き日にボストンの拙宅にて 試験通話した日本語である と明し、金子らが ボストンの ベルの寓居を 訪れた時のエピソードを披露して 人々を驚かせている。    

 さらに この後 ベル夫妻の長女が 医師と結婚して 新婚旅行の途次 東京に立ち寄り、金子家を訪れて 歓待されている。

 そして、さらに後 東京駐在の アメリカ領事 コビル夫妻が 金子家を訪ねているが その妻女は ベル夫妻の孫娘であった。

  

 

7 . 学生生活


明けて 明治十年、ハーバード大学 二学年次の 必須科目は 学長でもある ラングデル教授の 衡平法( 実定的な 判例法の一種 )に、エイムズ教授の 訴訟法、サヤー教授の 証拠法の 三科目に 加えて 学位取得の為の 必要単位として 選択二科目が必要であり 金子は グレイ教授の 運輸法 及び 会社法を 選択している。

 また この当時の ハーバード法科大学では 専ら 裁判官や 弁護士などの養成を目的とする科目が主となっており、憲法や行政法、国際法については学ぶ術がなく、金子は 憲法、行政法については 家庭教師について独習し、国際法は ハーバード文科大学の トレー教授の講義を聴いて 学んでいる。

 

 この年、明治十年は 二月に 日本で 西南戦争が勃発している。

 この大きな戦争は、遠いアメリカの東海岸にも 影響を及ぼさずにはいなかった。

 これまで 金子も 何度か面識のあった 九州の旧佐土原藩の 藩主家の三男 町田啓次郎は 米国のアナポリス海軍兵学校に留学中であったが、突然 帰国して 西郷軍に加わらんとしたが、西郷に諭し、拒まれた為、独力で 旧藩の士族を結集して 別働隊を編成し 政府軍と戦って 戦死してしまっている。     

 

 この頃、これまでも 何くれとなく 公私にわたって 金子を援助してくれていた ハーバード大学の法科教授 オリバー・ホームズが この処の 金子の 顔色の悪さを気にかけて、あまりに過度な 勉強ぶりを 少しの間 改めて、勉強時間を少し減らし その空いた時間を割いて、ホームズと共に 所謂 社交界に出入りして いろいろな人々と 交わる事を勧めてくれる。

 こうした事から、金子は ホームズと共に ホームズの父の ハーバード大学 医学部教授で 高名な医学者の シニアー・オリバー・ホームズ家の 晩餐に招かれたのを皮切りに、父 ホームズの 紹介で、前アメリカ下院議長のロバート・ウインツロツフ夫妻の晩餐に 招かれたりしている。

 

 この当時  ボストン近郊に在住の 日本人学生は 金子のほか 小村ら 七、八人の 留学生であったが、少し改まった場へ出かける時に着用する服としては、フロックコート着用が常であり、皆 それしか持っておらず、それで 間に合っていたが、金子が こうした晩餐会に 招かれて行った時、招待客は 婦人は イブニングドレス、男子は 白襟燕尾服を着用しており、恥ずかしい思いをした為、翌日 ボストン一の洋服店で 燕尾服を新調し、その値段が 百ドルと聞いて 同宿の小村が 目を丸くして驚いている。    

 

 また ある日、ボストン在住で 米国 東海岸地区 有数の実業家 アルフェウス・ハーディ夫妻の晩餐に招かれているが、この時 ハーディは、数年前 彼が 経営する会社の 上海とボストンを往復している商船に キャビンボーイ( 給仕 )として乗り込んでいた 日本人の少年を援助して アンドーヴァー神学校に 学ばせていたが、その少年が 今年 卒業して牧師となり、キリスト教 伝道の為 日本へ帰って行った という話を 金子らに話している。

 この少年が、後に 京都に同志社を起こし、近代日本のキリスト教教育に 大きな足跡を残した

新島 襄であった。

 

 

8. ハーバードの学位


 今、筆者の手元に 四人の人物が写った 古い 一枚の写真がある。

 前列に 椅子に座った 二人の女性が写っており、左が 金子らの先生で 高等小学校の教師 ジャセー・アリソン、右が その妹のシャーロット・アリソンで 後列 右に 金子、左に団が写っている。

 

 金子と 団は 二人とも、のちの後 壮年になってからの写真でも 痩身で 蓄えた髭の良く似合う 美男であるが、若き日の この当時も 女性には 良くもてるタイプだった様に想像する。      

 それにしても、この写真を見て感じる事は、特に 金子の場合は この留学時に 多くの つてに恵まれて ハーバードでの勉強の傍ら 当時のアメリカの上層階級に受け入れられ、多くの知己を得られた事の ひとつには 黒田家からの 学資に不自由のない援助と いまひとつには 金子の この外見の良さも 一因ではなかったかと思われる。

 少し 飛躍して考えれば これも のちの後、金子が 日露戦争の終結工作を アメリカで行っていた折に、それらに 大きな支援の手を差し伸べてくれた アメリカ大統領 セオドア・ルーズベルトをはじめ、多くのアメリカの要人たちは、ほとんどが 金子が この当時 個人的に培った人脈に連なる人々であり、この工作の成功が 日本を国難から救った要因の一つと考えれば、金子の外見、容貌の良さと いろいろな面での 並外れた高い能力に 日本は救われたと云えるかもしれない。

 

 実際、金子に対しては 厳しい論評を課している 司馬遼太郎氏でさえ その著書の[ 坂の上の雲 ]に 日露戦争の終結工作で 共に 伊藤博文に請われて アメリカに行った 金子は成功し、イギリスに行った 末松謙澄は 失敗に終わった要因を 金子、末松の 外見、容貌の美醜に その一因があったかもしれない と書いている。

 

 この当時、金子が どの様な意図を持って、米国の上層階級の人々との交流に 積極的に関わり、後々 大変な財産となる 幅広い人脈をつくっていったのか、その理由は 定かでないが、はっきりしている事は、度々 触れる様に のちの後、金子の日露戦争 終結工作時に、これらの人脈が 大きな役割を担っている点は、見逃す事の出来ない事実と思われる。

 翌 明治十一年、年が明けて 金子は 小村と偶然に、二人とも 昨年の暮れから 目を患い 眼科を受診したところ、二人とも 医師より 夜間の読書を 厳禁されてしまう。

 この当時、まだ 電気照明は 普及しておらず 夜間の照明は 灯油ランプが 一般的で 少ない照度に夜間の読書は 目に大きな負担をかけるため 目を患う学徒が多かった。   

 これによって 金子は 昼間は 大学の勉強に集中し、夜は 昨年より ホームズの勧めで出かけていた 社交界への出入りを 続ける事とし、小村にも 誘って勧めるが、小村は 英語があまり得意でなく また 交際嫌いで 夜は 下宿屋の姉妹と トランプ遊びに興じていたり、部屋に閉じこもって 読書をするのが 性に合っていたという。

 ある夜、金子が 遅くに帰ると、部屋に灯りが無く ランプに火を入れると、部屋の隅で 小村がカウチに 横臥しており、何故か聞くと 昼間読んだ 難解の書物について考えるには 暗中に限るとの答えで、金子は 改めて 小村の 勉強熱心さを知った と語っている。

 この年、六月 金子は 卒業試験を控えて 猛勉強に明け暮れるが、試験は 無事 通過して 卒業式の当日 大学総長より 法律学士( バチュラー オブ ロー )の学位を授かる。

 


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秋霜烈日の人(5)第三章 明治十一年 帰国へ

 

 

 

 

 

  秋霜烈日の人 5.

 


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  第三章   明治十一年 帰国 

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1. ハーバード卒業、帰国


ハーバード大学を卒業して 学位を授与された夜、金子は 下宿で 西方を遥拝し 瞑目して、黒田の老公に 鴻恩( こうおん )を謝している。

 この後 金子は 帰国への準備に 忙しい日々を送る。 

 先ずは 六年間の留学中に 世話になった人々や 友人を訪ねて 交誼を謝して廻った後、ボストンでの 社交中に 度々耳にしていた 米国の 有名な避暑地、ニューポートと サラトガの 観光を思い立って 独り 出かけている。

 ニューポートでは さほど 印象に残る事も無かった様だが、サラトガでは その 避暑地としての 規模の 大きさに驚くと共に、公認のカジノに 入場料を払って入場して見て、その喧騒と 老若男女が 金貨、銀貨を 投じて 勝負を争い、勝っては 祝杯をあげて騒ぎ、負けては 悲嘆にくれる様を見て、金子は 実に キリスト教の道徳を主唱する米国に この様な魔窟( 金子談 )がある事に 目を丸くして 訝しんでいる。

 

 金子は この年 マサチューセッツ工科大学を卒業した 団 琢磨と共に 帰国する事としており、ボストンで落合った後、二人で モントリオールから ナイアガラの滝を見物したり、シカゴや ミルウォーキーを経て 途中 二人共 発熱して、ホテルで寝込んだりしながらも、大陸横断の列車の旅をして サンフランシスコに着いている。

 サンフランシスコでは 同地在住の ハーバードの同窓生らと歓談した後、便船 シティ オブ ペキン号 に乗船して 帰国の途に就く。

 乗船した便船には、一時帰国する 駐サンフランシスコ領事の 柳谷謙太郎が 乗船しており、留学を終えて帰国する 金子らに、帰国後 官途に就く時の 心得などに付いて語っている。

 また、この便船の一等船客に 米国のキリスト教伝道協会から派遣されて 日本、及び 中国に布教に赴く 牧師と その家族等 多数が乗っており、金子は 彼らと 長い船旅の途次 何度か懇談する機会を持つが、その学識の低劣さに驚き、彼らは 伝道協会から 支給される年俸で 日本、中国で 生活する以外、おそらく 本国では 職の途は無かろう と酷評している。

 さらに また、日本の文部省により 東京帝国大学の教員に採用されて赴任する、米人 メンデルホールや、英人 ターリングらが 家族と共に乗り合わせており、金子は 彼らとも 何度か懇談の機会を持っているが、米人 メンデルホールについては、日本へ帰国して後 東京大学の教員となる 団 琢磨と、同僚として勤務し、宿舎も 後に 団が 金子の妹 芳子と結婚して 住む事となる 東京大学の 雇外国人教師館となる等で、この後 長い付き合いと成っている。   

英人 ターリングに付いては、東京大学において 国際法の教授を行うという事で、毎日 船中で 国際法の 初歩を勉強している様子に、金子は 官費を持って この様な低級な 国際法学者を招聘する文部省の意図する処は何なのか と 怪しんでいる。  

 

 九月二十一日、乗船 シティ オブ ペキン号は 無事 横浜港に接岸。

 帰国の当日は、この時すでに 新橋 ― 横浜間に 鉄道が開通しており、金子は 団と二人で 汽車で 横浜から新橋に着き、上野 池之端の団の養家、団 尚静邸に赴き 団の養父母、家族と歓談して、翌日 赤坂溜池の 黒田邸を訪ね、老公 長溥公に拝謁して 長年の留学支援を謝し、帰国の報告を行っているが、老公も 当初の目的通り 金子のハーバード大学 学位と、団のマサチュ-セッツ工科大学 学位取得に、大いに満足せられ 酒肴を賜っている。

 

 この後 金子は、何はともあれ 米国留学の恩人 平賀義質を 番町の屋敷に訪ねるが、平賀は 在宅にも拘らず、差し支えあって 面会致し難し と、面会を拒絶される。

 不得要領のまま 悄然と平賀邸を辞した金子は、翌日 この当時 黒田家の 家政参与的な役割を担っていた 松下直美を訪ねて 顛末を話し、ことの事情を尋ねている。

 松下は 理由を明かさぬまでも、平賀は 黒田の老公に 大恩有るにも拘らず、現在 老公と不仲となって 黒田家へ出入りをしておらず、また 黒田家の他の不祥事について、先年 金子らの先輩に当たる 早川 勇が 司法省に奏任官として奉職し、当時の 福岡藩の出身者としては 最も高位の中央官人として、黒田家の家政参与を兼ねていたが、家職の 太田素郎、吉田清作と共謀して 黒田家の財政に不正な処理をしていた事が発覚し、早川は 免職の上、現在 獄中にあり、太田、吉田も 懲役刑に処せられ、現在に至る旨 話している。

 また これらの事があって、黒田家当主の 長知は隠居して 福岡の別邸に移り、長知の長子 長成が幼くして 家督を相続して、老公 長溥が 後見人となり、家政を親裁している との事であった。         

 こうした事に 金子は 福岡藩は五十二万石の大藩にも拘らず、先年の 乙丑の獄 から始まり、太政官札鴈札事件に至る 幕末の混乱期に 有為の人材を悉く失い、枯渇して ここに至っており、老公を輔けて 黒田家の 家政を見るべき者が 皆無の状態を 嘆いている。

 

2.求職活動


この後、十月九日、金子は 団と共に 福岡に帰省する。

 金子は 懐かしの我が家で、母と 二人の弟、それに 成長した妹と 水入らずの時を過ごし、旧友らとの 楽しい語らいの日を過すが、それにつけても 故郷 福岡の変わり様と、廃藩置県後の 武家の没落のさまに 心を痛めるが、さらには 先の 西南の役で 西郷軍に投じて 罰を受け 東京や宮城の監獄に繋がれている者や、戦死したり、刑死したりした旧友の若後家が、黒髪を切って 幼児の手を引き 墓参するさまに 内心 涙している。

 

 こうした一日、金子家の氏神の 鳥飼八幡宮に参拝した後、太宰府天満宮に参詣し、その後 団と共に 黒田家の 福岡別邸を訪ね、黒田長知に 帰朝報告をして 午餐を賜っている。

 また 先年の東京留学時、福岡県庁からの 帰国命令に抗して 東京在留を決めた時に世話になった 一族の 平山能忍が、この当時 東京での職を辞して 福岡に帰っているのを訪ね、東京での 恩誼を謝すが、この時 平山は 先の黒田家家政にまつわる 不祥事の詳細と、今ひとつ 金子に関わる件として、金子が 米国留学中に 平賀がある人の讒言( ざんげん )を入れ、老公に対して 金子への留学費を絶つべし と 進言したのを、平山が 強硬に反対して 継続された経緯などを 語っている。

 金子としては、先の 東京での平賀邸を訪ねた折の、平賀の不得要領な態度への疑問は氷解したものの、重ねて 平山の厚誼を謝すと共に、黒田家の前途を思って 暗澹としたと語っている。 

 

 その後、金子は 福岡県令の 渡辺 清の招きに応じて、団と共に その官邸を訪ね、米国の状況などを話した後、渡辺より 司法卿 大木喬任( おおき たかとう ) 及び 司法大輔( しほうだいふ :司法省上級次官 ) 山田顕義( やまだ あきよし )あて 仕官願いの 添え状をいただき、別に 団は 渡辺より、福岡県内における 炭山の状況調査の依頼を受けている。

 こうして 金子は 県内炭山調査に赴く 団を 福岡に残して、帰京の途に就く。

 

 帰京後、金子は 老公への挨拶を済ました後、 松下直美宅に 一時寄宿しながら、一日 司法省に 大木司法卿、山田司法大輔を訪ね、福岡県令の 渡辺 清の添え状を呈して、仕官の希望を述べている。

 翌日、司法省 大書記官 渡辺 驥より 来状が有り、再度 司法省に出頭した金子は、渡辺大書記官より 大木卿、山田大輔の命により、貴君を 司法省に採用し、判任官 御用掛 月報二十五圓に処す旨を伝えられる。

 

当時、明治一〇年の 改定 太政官制 職官表では

勅任官

一等職 : 大臣、参議、卿( 各省長官 )

二等職 : 大輔( 各省上級次官 )、

三等職 : 少輔( 各省次官 )

 

奏任官

四等職 : 大書記官

五等職 : 権大書記官

六等職 : 少書記官、

七等職 : 権 少書記官

 

判任官

八等職  ~ 一七等職

   

となっており、この時の 判任官 御用掛 月報二十五圓は、現場の下級管理職で 係長クラスかと思われる。

 これに対して 金子は、米国 ハーバード大学を 卒業して バチュラー( 学位 )を持つに付、奏任官採用で交渉するが、埒が明かず 一時 司法省への仕官を諦め、別に 声の掛っていた 東京大学予備門 教員の職に就く事とし、老公に会って その了を得、十一月十九日 文部省より 東京大学 予備門 教員 月俸八十圓の 辞令を受け取り、勤務を始めるが、この頃 東京大学 予備門 教員の 同僚に 高橋是清等がいた。

 また、この頃 金子は 当時 民間の有志が集い、盛んに 時事問題などの 研究、討論の場としていた 「 共存同衆 」に入会して 各界の 若手人士と交流している。

 明けて 明治十二年、金子は 東京大学 予備門教員として勤務しながら、寄宿先の黒田家邸内の 松下宅から、赤坂 表町に貸家を借りて転居し、福岡より 母と二弟一妹を呼び寄せるが、いかにも手狭につき、同じ赤坂の丹後町に 別の貸家を借りて 再び転居している。

 

 この頃、金子は 黒田の老公邸で 福沢諭吉に会っている。

 当時、黒田家の当主 長成( この時 十三歳 )が 福沢の慶応義塾に学んでおり、福沢は 時折 長成の学業報告などで、黒田家の老公 長溥を 訪ねていた様である。   

 福沢は 金子の素性を聞いた上で、当時の 日本の知識人 一般に 多く受け入れられていた、英人 ハーバート・スペンサーの 教育論を読んで、その説に 大いに感服し、今後 慶応義塾の教育方針に取り入れていく考えを 述べている。                

 

 金子は この前年、共存同衆に入会していたが この年 さらに「 嚶鳴社 」に入会している。

 「 嚶鳴社 」は 太政官、元老院等の 若手 少壮官僚らが集まって、時事問題等を 自由に討論し それを 一般の公衆に傍聴を許すとしたもので、例えば “自由貿易と保護関税徴収の可否 ”を テーマとして 闊達な議論が成され、ある日の演説、討論会場には 元老院議長の 有栖川宮熾仁親王が 微行姿で、副議長の 河野敏鎌( こうの とがま )と共に 傍聴に来ていた とある。

  また この頃、金子は 一日 外務大輔を務める 森 有礼を、永田町の私邸に訪ねている。

  森邸で 金子は、眼光の鋭い一人の西洋人を紹介されるが、これが 有名な英国公使 パークスであった。

 公使 パークスは、金子の流暢な英語に驚き 経歴を尋ねるが、ハーバード留学を話して納得し、以後 公使館にも 訪ねて来る様にと話している。

 五月に入って 太政官より「 共存同衆 」及び 「 嚶鳴社 」の公開演説会などに、官吏の出席が 禁止されてしまい、盛況を誇った これらの会合も 徐々に 衰微していった。 

 この頃、「 共存同衆 」及び 「 嚶鳴社 」の同人で、昵懇の 馬場辰猪( ばば たつい )より 三菱の 岩崎弥太郎より、三菱の相談役として迎えたい旨の話を聞く。

 これは、平時は何らの職務も無く、三菱側の必要時に その相談に応じれば良い と云うもので、月謝 百圓を給する という事であったが、金子は 岩崎の好意を謝しつつ、将来 国家の為に働く大志を持つに付き、と 謝辞している。

 また 同じく 馬場より、岩崎の岳父は 前参議 後藤象二郎で、その 岩崎の次女は、未婚に付き 金子に娶る事を薦めるが、金子は 権門、富豪の閨に入るを欲せず として、これも謝辞している。     

 この後、金子は「 嚶鳴社 」で 世話人を務めていた、元老院大書記官 河津祐之、権大書記官 沼間守一の 紹介で、元老院 副議長の 河野敏鎌と 幹事の 柳原前光( やなぎわら さきみつ )に会い、求められて 政治問題への意見を述べている。

 

3. 元老院に仕官


 翌 明治十三年、金子は二十八歳となる。

 一月の末に、東京大学 予備門 教員を勤める 金子の下に、東京大学 学務綜理( 事務方責任者 )の加藤弘之から、元老院より 金子の採用可否について 問い合わせが有ったが、後任の当て無きに付き 不可の回答をする旨 通告が有った。

 これに対して 金子は、自分は本来 官吏志願に付き、現在の 予備門 教員に採用される時に、将来 官吏に登用される機会が有れば、予備門 教員を辞する旨 予め 申し越しを行っており、今回の 元老院 採用の機会については、予備門 教員を辞して 応じる考えである旨、加藤に伝える。

 曲折の後、一週間の猶予を経て 金子は 東京大学 予備門を辞し、元老院 御雇 月俸百圓 調査第二課勤務を命ず、の 辞令を受け取る。       

 この時の 経緯に付いて、金子は「 嚶鳴社 」で 親交のあった、元老院の 河津、沼間が 副議長の河野、幹事の柳原に 推挙してくれたものかと 推測している。 

 

 金子が 元老院に奉職して 約一月後の二月二十八日、政府は官制の大改革を行い、元老院においても 議長の 有栖川宮熾仁親王が職を辞して、参議 大木喬任( おおき たかとう )が 議長兼任となり、副議長 河野敏鎌は 文部卿に、幹事 柳原前光は 駐露公使に転出となり、大書記官 河津祐之は 司法省 検事に、権大書記官 沼間守一は 退職となり、わずか一月前に 金子の元老院奉職に尽力してくれた人々が、悉く 元老院を去る事となっている。  

 この間、金子は 調査二課において、この当時 全国の有志から 国会開設 並びに 条約改正に関する建白、請願が 盛んに 太政官、元老院に 提出されているに付き、これら 建白と請願の差別、受領すべき官庁、受領の手続きなどを定める事 などを手際よく処理して 手腕を発揮している。

 そして、金子は 四月二十一日、極めて短期間で 元老院 権少書記官 昇任の辞令を受け取る。

 元老院 権少書記官は、明治十年一月の 改定 太政官制によると、奏任官 七等職 月俸百圓とある。

 この日、金子は 退庁後、黒田邸に至り 老公 長溥に拝謁して 任官の報告をしているが、この当時 旧福岡藩の出身者で 奏任官は 金子ただ一人だけで、老公にも 大変に喜ばれている。

 また こうした事から金子は、老公より 向後 黒田家の家政についても 諮問に与る事となる。

 

 この後、金子は 一日 老公の招きで黒田邸を訪ね 老公より内密で、福沢諭吉より 黒田家に提出された書類を見せられ、意見を求められる。

 内容は、黒田家より 福沢に対して 五萬圓( 現価で 約二億円程 )を交付し、福沢は 洋学者の学資援助や、研究、翻訳、著述に関する支援などの 育英事業を行う と有った。

 金子は これに対して、今 黒田家として 育英事業に着手するとすれば、先ずは 旧筑前の 福岡県人を対象とした事業とすべきで、これらの事業を 福沢 一任とした場合は、筑前に 縁もゆかりも無い人々への事業となり、将来 福岡県 及び 黒田家の為に 尽力する人より、福沢の 慶応義塾の為に 尽力する 人材の育成と成るに付き、この話は お断りあるべし と答えている。

 老公も 金子の意見に 大いに同意し、以後 この件は 沙汰止みと成っているが、これまで 黒田家の当主 長成が 慶応義塾に学んでいる事から、度々 長成の 成績報告などで 黒田家を訪れていた 福沢が、この後 黒田家に まったく出入りしなくなっている。    

 

 これらの事で 金子は 益々 老公の信任を得る事と成り、この後 当主 長成の 教育方針についても諮問を受けている。

 この時、長成は 十四歳で 三田の福沢邸に 書生、小使いと共に寄宿し、慶応義塾に学んでいた。

 金子は 長成の教育方針に、緻密で 長期に亘る計画を立てて 老公の諮問に応えている。

 この中で 金子は、長成を大藩の華族の当主として、将来 英国へ留学させる事が望ましく、彼の地の 貴族の学ぶ大学で 一専門学を修め、且つ 英国貴族の子弟との交誼の中から 人格の修養までを図る事とし、先ずは 留学準備のため 慶応義塾を退学して、東京大学 予備門へ入学する事とし、その為に 黒田邸内の一画に 勤学所を設け、長成は 早急に 福沢邸より ここへ移る事とする。             

 慶応義塾については、レベルが 普通中学程度で、専門の学科を教育する事無く、特に 英語が日本人教師の教える 変則 英語の為、英国留学後に かえって 支障になる可能性が高い事を挙げている。                          

 また、新たに設ける 勤学所には 謹厳なる学監を置いて 修学の実を挙げる為、一切 女中を置かず 長成の 身の回りの世話も すべて 男子の職員をもって成し、老公 及び ご両親への面会も 月 二回までとし、ご親族の 宴会、訪問なども 一切 お断りすべし と 細部に亘っている。

 これに対して 老公は、金子に 全幅の信頼を置き すべて 金子の提案を受け入れ、向後 長成の教育については、すべて 金子に託す旨を述べて 金子を 感動させている。   

 

 十月に入って 金子は、元老院の同僚 豊原基臣の紹介で、同じ 麹町区内 中六番丁に 初めて 家屋を購入する。    

 家屋は 坪数 三百五十坪、古家 瓦屋根の母屋に 離れ屋を併せて七部屋と 台所、風呂場付で 代価 七百圓であったが、金子は 毎月の月給を倹約し、また 官庁の諸規則を 英訳するアルバイトで得た金員を これに充てていた。

 さらに この年 金子の身辺は 慌ただしい。   

 十一月に入って 金子は、青森県令 山田秀典の次女 弥寿子と結婚する。

 山田弥寿子は この年 十五歳。

 さすがに 十月に家を買い、十一月に結婚する事になった金子は、金子らしからず 金銭に窮しているが、山田家とも 相談の上 極力 質素な挙式として、尚 不足金を 高利の金貸しからの 借用金で賄っている。    

 この時、初めて 高利貸しという人種と接触を持った 金子は、その横柄な態度と 粗暴な物言いに驚き、二度と この様な金を借りるまじと 決意している。

 

4. 「 政治論略 」


  この年も暮れになって、金子は 元老院 副議長 佐々木高行より、この頃 自由・民権論者の間で 頻りに持て囃されている、仏人 ジャン・ジャック・ルソーの〔 民約論 〕に対して、保守・漸進の立場から 学説を論ずる、良書の有無に付いて 諮問を受ける。    

 金子は、早速 米国留学中に愛読していた、ルソーの〔 民約論 〕に 反駁し 攻撃した、英人 エドモンド・バーグの〔 フランス革命の省察 〕( 金子の著書では〔 仏国革命反響論 〕 )及び〔 新ウィッグから旧ウィッグへ 〕( 金子の著書では〔 新旧の改進党に訴う 〕 )の二書を挙げた処、 副議長 佐々木は 大いに喜び この二書の要意をまとめて、一書を 提出すべしと 命ずる。

 ここに、金子は 有名な〔 政治論略 〕を 書き上げて 元老院に提出している。

 この当時、この〔 政治論略 〕は 元老院を経て、宮内省 侍講 元田永孚( もとだ ながさね )より 明治天皇の叡覧( えいらん )に供されていた事が、のちの後 昭和に下ってから 金子自身が 大命を拝して 編纂にあたった〔 明治天皇記 〕の 資料調査中、皇居 豊明殿御物の資料から 明らかと成り、金子を 感激させている。 

 

 明けて  明治十四年 金子は二十九歳。

 この頃、相変わらず巷間では 自由・民権論で 喧(かまびす )しい中、太政官内においても急進的な論客有り、保守派の論陣を張るもの有りで、互いに 争論を交わす状況にある中、特に 自由・民権論での 思想的な論拠としての ルソーの〔 民約論 〕に対して、バーグの 保守学説にもとずく 金子の〔 政治論略 〕が 保守・漸進派の 論拠的な位置を 占めつつあった。

 さらに、この後 自由・民権論者の中で 急進的な論陣を張って 過激化する者が現れ、この年の 秋田事件から、翌年の 福島事件をはじめ、数々の 暴動事件を引き起こす事と成り、これら 自由・民権論に対抗する論拠として 金子の〔 政治論略 〕が、元老院から 官許出版された事と相俟って 保守思想として、急速に体制側に浸透して行き その 著者 金子の名前も 世上に知られる事になる。              

 そして 三月二十一日、金子は 元老院 少書記官 昇任の辞令を受ける。

 元老院 少書記官は 奏任官 六等職 月俸 百五十圓。

 七月、金子は 元老院での職位上昇に伴い、増加する 来客への対応などの為 邸宅の増改築を行う事とし、詳細を決めて見積もりを取ると 八百圓が必要となるが、費用の出所が無く 黒田の老公に相談すると 老公 曰く。

 金子も 奏任官となって 邸宅の一軒も 必要かと考えていた処に付き、その費用は 黒田家から 支給すべし、と 即座に家令に命じてくれている。

 

 この年 十月十二日、これより十年後の 明治二十三年に 国会開設と 欽定憲法を制定すべく、明治天皇の詔勅、即ち 世に云う 国会開設の詔が発せられる。

 この時 近侍の者が、天皇に 時期に付いて伺うに当り、天皇は 五、とか 十、とか 百 とかいう 区切りの良い数字を好むに付き、二十三年 と云う年を意外に思った と云う話が伝っているが、明治二十三年は、皇紀( 神武紀 )二千五百五十年にあたっている。 

 

 この年、政府は 官制の大幅な改革を行い、太政官内に あらゆる法令の審査・制定を行う 参事院( 後、内閣法制局となって現在に至る )を新設して 参議 伊藤博文を 初代議長に兼ねしめ、元老院 議長 大木喬任を 司法卿に転じ、参議 寺島宗則を 元老院 議長とし 大蔵卿 佐野常民を 元老院 副議長に 転じている。

 金子の上司 副議長の 佐々木高行は、この時 参議 兼 工部卿となり、元老院を去っている。

 また、参議 大隈重信と 大隈に連なる 慶応義塾系のブレーンが 一斉に罷免されている。

 所謂、明治十四年の政変である。

 

 この後、政権中枢の 佐々木らが 金子の〔 政治論略 〕を 当時の 皇族方に奉呈し、金子に その内容を 講義をせしむる事とし、勅許を得て 有栖川宮 熾仁、威仁( たけひと )、東伏見宮 彰仁(あきひと )、伏見宮 貞愛(さだなる )、北白川宮 能久( よしひさ )の 五親王に、毎月二回 進講の機会を設ける事を 定めている。

 この 進講日は、各皇族邸での 持ち回り開講としていた様であるが、当日は 佐々木らの 政府顕官の他、浅野、松浦、鍋島らの 旧大名華族らも傍聴していた。

 これらの事で 金子は、皇族たる 五親王の方々や 旧大名華族の人々と 親しく接する機会を得る事と成り、少し 考えられない様な 栄達の端緒を掴んでいる。          

 

 こうした 日々を過ごす 金子であるが、私事では いろいろと 悩ましい事も有った様で、この頃 金子邸の 増改築が 落成間近くなって来た頃、襖・障子の費用に 百圓程の不足が生じ、調達の途無く 困じていた処、妻の父 青森県令 山田秀典が 地方官会議で上京中を幸い、妻 弥寿子に 借用の願いに行かせている。

 山田は 快く お金を出した上で、これは 新居の祝いに贈与するので、返済の要 無しと言ってくれ 金子は夫妻で 岳父の厚志を謝している。      

 

 十二月に入って、金子は 内務卿 山田顕義より 内務省 取調局長 就任の打診を受ける。

 この当時、内務省 取調局長は 勅任官で、閣下とも呼ばれる地位であり、二十九歳の金子が就任すれば 異例中の異例となるが、この時 金子は 元老院 副議長の 佐野常民から呼び出され、この十月に発せられた 国会開設の詔勅から、今後 我が国は 憲法の制定に向けて 大きく動き出す事になり、この 大事業の 中核と成すのは やはり 元老院を措いては 他に無く、貴君においても 何としても ここは 元老院に残って 憲法制定の大事業に 尽力してもらいたい旨、説諭される。

 金子は ここに 佐野の説諭を容れて 元老院 残留を決めている。

 こうした 十二月二十一日、金子は 元老院 権大書記官 昇任の辞令を受け取る。

 元老院 権大書記官は 奏任官 五等職 月俸 二百圓。

 こうして、金子は この年 三月と 十二月、二回の昇任を果たした事になり、これも 官吏昇級条例中、異例中の異例であり、同僚らの 羨望と 嫉視を 受けている。

 

5. 秋霜烈日


 翌 明治十五年、金子は 三十歳。

 明けて、金子家で 新邸での元旦を祝った後に、金子は 元老院 奏任官として、初めて 新年の宮中に参内し、両陛下への 拝謁を果たして 賀詞を奏している。

 その 六日、金子は 突然 岳父で 青森県知事 山田秀典の訃報に接する。

 山田は 前年暮れに 地方官会議出席で上京中 体調不良を訴えて入院し、年が明けて 急死したものであった。

 三月に入って 参事院 議長 伊藤博文が 欧米の憲法制度調査の為 欧米に向け出発する。

 この時、金子は 伊藤の随員として同行する 親しい人々を 横浜に見送っているが、その帰りに 岩崎小二郎( 三菱の岩崎とは無縁の人 )、清浦奎吾、白根専一らと 杉田の観梅に出かけている。

 清浦は、本書 序章で述べた 清浦奎吾であり、白根専一は 清浦の埼玉時代の県令( 県知事 )白根多助の 次男である。

 白根は、明治三十一年 四十八歳で病没するが、健在ならば 内閣を背負う逸材 と惜しまれていた。 

 この当時 岩崎は大蔵官僚、白根、清浦は 司法官僚で 共に 有能な若手官僚として 金子と親交を結んでいた。

 清浦は この時 参事院 議官補で、伊藤の洋行に伴って その後任の 参事院 議長に就任した 参議 山縣有朋の下で、議長官房付書記官を兼務 となっていた。

 この後、金子は 元老院 議長 寺島宗則の命により、渡欧中の 伊藤の憲法調査を 輔翼( ほよく )する為、その参考とする 欧州各国の憲法の重要項目と問題点を、調査 取まとめをし「 各国憲法異同科目 」として 議長 寺島に提出している。

 寺島は これを 在ベルリンの 伊藤の下に郵送している。

 

 四月には 長男 誠一郎が誕生し、昨暮に 黒田家よりの賜金で落成していた 新宅に 黒田の老公 長溥  及び 前当主 長知夫妻を招いて 謝恩の小宴を開いている。

 これは 旧藩時代ならば、金子の当時の身分から考えて、藩主一家を 私邸に招く事など あり得ない事では有ったが、この旧藩主家 招宴の話を聞いた時に、金子の母は 絶句して 腰を抜かさん程に驚き、恐れ入っている。                    

 少し 余談になるが、福岡藩 五十二万石には 幕末当時 およそ 二千家余りの藩士家が在籍していたと思われ、当時の 金子家の序列が 二千より前 と云う事は無かったと思われるので、まさに 世が世ならば と云う事になるが、ただ 旧藩主家側から見れば、最下層身分の金子も 数多い 旧家臣の中の一人と云う事であり、金子の側から見れば 金子の 類まれな資質と、希有の幸運から齎された栄誉であった と解釈していたと思われる。 

 六月、重病に落ちていた 長男 誠一郎が 死去。

 

 この月、金子は 内務卿 山田顕義の命により、福岡へ 単身政治視察に赴く。

 福岡では 母の実家の、矢山金蔵宅の 離れ座敷に止宿しながら、県庁にて 県令、県官と会談し 政治状況を聴取して 実地の視察を行っている。

 視察が終わっての 帰途、金子は 馬関( 下関 )から乗った汽船を 神戸で降りて、有馬温泉に 湯治逗留している。

 有馬では、「 池之坊 」に 宿を求めるが、空部屋が無く 主人の勧める 近所の雑貨店の二階の 粗末な部屋に止宿するが、この当時の 有馬の温泉は 外湯( 街の中心に有る浴場へ宿から入湯に行く )で、男女混浴で有った。

 翌朝 浴場で入湯中、偶然に かって 元老院に奉職して 辞職後 大阪株式取引所 頭取を務める 吉田 某に会うが、吉田は 宿の主人を呼んで、元老院の奏任官たる 金子を 粗末な 雑貨屋の二階に 泊める事 罷りならん として、自分の借り切っていた 上等の部屋を 空けてくれる。  

 金子は 十数日滞在して、帰途 有馬より 神戸まで、二人挽きの人力車を雇い、車賃を 前払いするが、神戸へ向かう途中の、山中の車夫の溜り小屋で、一人挽きの車に乗り換える様 強要される。

 金子は、出発前に 二人挽きの車賃を 前払いしているに付き 成らん と拒み、嫌悪なムードの 雲助連に 取り囲まれるが、金子は 落ち着いて、雲助連に 自分は 官に勤める者であるが、ここから 神戸まで歩いて帰り、神戸の 警察署に命じて、貴様らを 悉く 捕縛してくれる と 言い残して さっさと歩き出すが、二人挽きの車夫が 追いかけて来て謝るも、金子は許さず 歩き続ける。

 車夫 二人が、尚も 追いかけて来て 許しを乞うに、金子は 乗って神戸に着いた後、旅館に 警察署長を呼び 事の顛末を話して、悪漢どもの 捕縛を求めている。                 

 翌朝、警察署長が宿を訪れ 昨日の内に 巡査を派遣して 悪漢数名を拘引して 取調中である旨、報告を受けている。

 この様な場合、車夫 二人は 謝罪して、約束通り 二人挽きの車で 神戸まで送っており、警察沙汰にまでしなくても と云う 考えもあろうが、ここで 彼らを許せば 向後も 同じ様な事を繰り返し 結局 大人しい客が 難儀を見るに付き 許さず、と云うのが 金子の論理で有り、秋霜烈日の気概を示すものであった。       

 

 神戸から 大阪に立ち寄って滞在中、金子は 元老院議長 寺島宗則より 至急 帰京すべしの 電信命令を受け取る。

 これを受けて 帰京し、直ちに 元老院に出頭した 金子に、議長 寺島 曰く。

 現在、伊藤参議が 欧州各国の 憲法調査の為に、彼の地に滞在中であるが、この度 三条、岩倉の両大臣に諮って、自分が 駐米公使となり 彼の地に赴いて 米国憲法を調査し 伊藤の 欧州憲法と併せた 調査結果を基に 我が国 憲法の起草に当る事としたい。

 ついては 米国留学の経験が有り、彼の地に知己も多く 法学の学位も持つ 貴君に、公使館書記官として 私に同行して 米国に赴任し、米国憲法の 調査・研究に当ってもらいたい。

 ただ、この件については、現在 私案に付き、追って 佐野 副議長と協議のうえ 正式発令としたい。     

 と、金子は この件について 米国公使館書記官として 米国に赴き 米国憲法の 調査・研究を行う事は、私自身 切に 望む処である旨 答えている。

 しかし、この件は 副議長の 佐野が、今後 金子は 元老院に於いて 憲法草案を作成する上で、中心となる人物であり、この時期 金子を 海外へ派遣する事は 適当に非ずとして 反対し、金子自身にも 懇切に 説示が有って、後 この件は 沙汰止みとなっている。

 九月に入って 元老院に 人事異動が発令され、副議長の 佐野常民が 議長となり、幹事の 東久世通禧( ひがしくぜ みちとみ )が 副議長となる。

 

 6. 義弟、団 琢磨


  この頃、友人の紹介があり 金子は 自宅に 近衛篤麿( このえ あつまろ )の来訪を受けている。

 近衛家は 公家中 五摂家の筆頭の家柄で、近衛は この少し後の 華族令で 公爵を叙爵している。

 この時 十九歳の 近衛は、この 二年ほど前 東京大学 予備門に在学中、健康を害して 退学を余儀なくされていたが、英国留学を希望するに付き、金子に 英語の個人教授を 願いに来たものであった。

 金子は 週二回 元老院からの帰宅後 英語を教える事とするが、近衛の勉強熱心と 学力の進歩に驚き 滅多に人を褒めない 金子が、この時ばかりは 近衛を褒めている。

 近衛は 後、貴族院議長や 学習院の院長を歴任するが、率直で 豪胆な人柄ながら、惜しむらくは  明治三十七年 四十歳で病没している。

 

 十一月、金子は 黒田家 家令の 山田 稔の 来訪を受け、金子の妹 芳子と、団 琢磨との婚姻を打診される。

 固より 金子にとって、団は 弟 以上の存在であり、芳子との婚姻は 願っても無い事であった。

 当時、団は 米国 マサチューセッツ工科大学を卒業して、金子と共に帰国後、共に 福岡に帰省していたが、福岡県令 渡辺 清の求めで、上京する 金子と別れて、福岡県内の炭鉱山の 調査、視察を行い、その後 大阪専門学校( 旧制 第三高等学校の前身 )の教員を勤めた後、この頃 東京大学 助教授と成って 本郷の 大学 雇外国人用 教師館に住んでいた。    

 早速、金子は 団と会って 婚姻の段取りなどを話すが、この頃 団は 月俸百圓で 教師館寄寓の身分に付、式も 派手な事は行わず 金子家で 親族のみにて行う事とする。  

 

 結婚式がすんで 少し後、金子は 団の 養家の件で、旧藩時代からの先輩の 早川 勇と 月形 潔の来訪を受ける。

 早川は この時 五十一歳、幕末の藩政時代、早くから 勤王運動に加わり、長州の高杉晋作らとも交流の有る 古い 志士歴を持っていたが、維新後 司法省に出仕して 奏任官まで務めていた頃、黒田家の家職と共謀して 黒田家の資産の横領事件を起こして免職と成り、二年余り 獄に繋がれていたのを、勤王の志士時代 親交のあった、東久世通禧や 土方久元( ひじかた ひさもと )らの尽力で 獄を出、この頃 元老院 小書記官の職に復していた。

 月形は この時 三十七歳、月形も 古い 志士歴を持つが、元治二年の 福岡藩の 乙丑( いちゅう )の獄事件では、従兄の 月形洗蔵が刑死しており、十九歳の 潔は、危うく難を逃れている。      

 維新後は 司法省に出仕し 東京裁判所 少検事を務めた後、内務省に転じ、この少し前に 内務卿 伊藤博文の命によって、北海道集治監 設置の調査を行い、この時は 完成して開所した、北海道 樺戸集治監の 初代典獄( 刑務所長 )を 務めていた。  

 団 琢磨は 生家を 神屋家と言い 曲折が有って 諏訪家と名を変えていたが、幼少時に 乞われて 藩の上士で、家老も出す家柄の 大組 六百石、団 尚静の 養子となっていた。

 養父 尚静は 版籍奉還の後、福岡藩の 太政官札鴈札事件で 他の ほとんどの上士が 失脚してしまった事もあり、一時期 福岡藩 大参事( 筆頭家老に相当 )を 務めていたが、廃藩置県後に 失職してから いろいろな事業に手を出して 失敗したりした様で、大きな借財を負って、この頃 日々の生活にも事欠く様な 状態だったらしい。

 

 早川、月形 両名の来訪の用件は、団 琢磨の 養父、団 尚静の 生活が立ち行かぬ様になっており 付いては 琢磨との 養子縁組を解いて、琢磨は 実家の諏訪家へ帰る事とし、琢磨から 尚静へ 幼少よりの 養育謝金として 千圓を 金子の口利きで 黒田の老公より 借用して支払う事としては 如何か と云うものであった。    

 これに対して 金子は、黒田の 老公より 千圓の借用は 可能であろうと思うが、現在 月俸百圓で 結婚したばかりの 団に、千圓の借財を負わせる事は不可であり、また 後々 団は 官途に 就きながら、今 困窮の 養家を去る事は 恩知らずの謗りを受けかねず、それよりも 団は このまま 団家に 留まり、向後 毎月 月俸の一割を 養家に扶助料として 支払う事としたい。

 これならば 養家の側も 団の 立身出世を望み 双方に良からんと思う、と 話して 早川、月形 両名を 納得させている。

 

 ところで、どの様な経緯で この時期 早川、月形の両名が、団 尚静の為に 金子を訪ねてきたのかが 良く解らない。

 お金を 調達する方法の側から考えると、この当時 千圓のお金を 右から左となると、黒田の 老公を頼るしかなく、老公の覚えめでたい 金子に頼むしかない事は解る、また 団 琢磨との縁の側から考えると、金子は 団の 刎頚の友であり、今 妹 芳子と結婚して義兄と成り、団の 後見人的な立場にある金子に話す事も解る が、早川、月形の側から考えると 先ず 早川は この頃 元老院 少書記官で 金子の先輩ではあるが、この頃は 金子の出世が早い為、職位は下位となるものの同僚である。

 月形は この前年に開庁した 北海道 樺戸集治監の典獄であり、大変な苦難のすえ 最初の冬を越して 二回目の冬に入った処であったが、何らかの 監務に関わる所用で 上京していたものと思われる。      

 それにしても 開庁間もない 大集治監の責任者として 監務を軌道に乗せる為に 寸暇を惜しむ時期であった事は間違いない。

 そこで 早川、月形と 団 尚靜の 関係になるが、正直な処 解らない。

 今 筆者の手下に有る、福岡地方史研究会が編した 明治初年当時の 福岡藩士総目録と言える〔 福岡藩分限帳集成 〕から類推して、藩政時代に 団 尚靜の所属する 大組の 組下に 早川、月形らが所属していて、廃藩後も その様な関係が 濃密に残っていたのか と考えられるが 確証は無い。 

 また この〔 福岡藩分限帳集成 〕からの調査も、この当時 人々は 頻繁に姓名・通称名を変えている事と 特に 明治二年八月に 新政府から出された 右衛門、左衛門、兵衛、数馬など 官職名の類型を 通称名に使用する事を 禁止する通達が出されている事も、尚 調査を困難にしている。

    

7. 憲法調査


  明けて 明治十六年 金子は三十一歳となり、この頃 ようやく 公私 共に 身辺が落着いて着た様である。

 一月に 早川らと 熱海に避寒に出かけたり、三月には 小松宮、伏見宮、北白川宮の三宮殿下 主催の 蒲田の観梅会に出かけて 楽しんだりしている。

 四月、太政官により 「 地方巡察条規 」が定められ、金子は、現職のまま 元老院議官 渡辺 清と共に 地方巡察使を拝命して 東海、北陸、東山 三道の巡察を行い 太政官に対して〔 明治十六年地方巡察使紀行 〕を提出しているが、これを契機に 地方制度の組織、官制に関わる 行政法に興味を持ち始めて、地方制度 即ち 県、郡、市町村の 組織 及び 官制などの地方行政に関する、調査・研究を始めている。

 

 翌 明治十七年 二月、金子の許に 東京師範学校校長 高嶺秀夫が来訪し、同校の学生に 地方制度に関連する法令 特に 中央省庁と 地方府県庁の組織、権限に付いての 概論の教授を 依頼する。

 金子は 議長 佐野常民の承認を得て 東京師範学校 教授の辞令を受け取り、週二回 行政法概論の講義を行っている。

 三月に入って、政府内では いよいよ 参議 伊藤博文を中心に 憲法制定へ動き始めており、宮中に制度取調局が設置され、伊藤が 初代長官と成り、宮内卿を兼ねる事になる。

 これは、天皇主権国家の制度を執る 明治政府において、憲法の制定は まず 天皇、宮中の理解を求めるところから 始める必要が有った為と考えられる。

 

 四月、金子は 参事院 議官 井上 毅( いのうえ こわし )の 来訪を受け、井上より 参議 兼 制度取調局 長官の 伊藤から面談の要請が有るとの事で、伊藤の公邸まで 同行を求められる。 

 金子は 伊藤との面談時、現職のままで 伊藤の秘書官と成って、憲法取調べの為にと 尽力を要請されるが、金子は これも 議長 佐野常民の承認を得て 承諾し、新たに 任太政官権大書記官 兼 元老院権大書記官 兼 制度取調局御用掛 の 辞令を受ける。

 こうして 金子は 制度取調局の長官 伊藤の下で 井上 毅、伊藤巳代治( いとう みよじ )らと 憲法の取調べに 従事する事と成る。 

 

 七月、政府は 憲法の制定と並行して行う議会の開設時、上院に当たる 貴族院の議員を選出するための下準備として 華族制度の創設を行う。

 華族制度は 五爵の階級 公・候・伯・子・男 を定め 旧公家を堂上華族、旧大名等の武家華族、維新の功労者等の勲功華族などに それぞれ 授爵する事としたものであったが、制度の設計時 堂上華族 及び 武家華族を ひとつの叙爵対象とし、勲功華族などは 別の制度で 叙爵すべし、とする 右大臣 岩倉具視等と、すべての華族を 同一の叙爵とすべく主張する 参議 伊藤博文等とで 大きな 論争となるが、岩倉の死去で 伊藤等の主張する すべての華族を 同一に叙爵する制度として 創設される。

 ちなみに 金子は 明治三十三年、大日本帝国憲法 制定時 の功績で 男爵に叙爵され、明治四十年 長年の国政参与の功績で 子爵に昇爵、さらに 昭和十三年 勅命による〔 明治天皇記 〕編纂 完成の功績で 伯爵に昇爵している。 

 

 この頃 黒田家では、当主 長成の 東京大学 予備門卒業と、英国留学の時期と成り 老公 長溥の命によって、長溥の実家 島津家より 島津忠義の長女 清子( さやこ )を 長成に娶り、その半年ほど後に 英国留学に向かう事となるが、これに 金子が 異を唱えて 老公 長溥に 諌言している。

 金子は、年若い 長成が、半年間の 新婚生活の後、妻と別れて 遙かな外国に赴き、刻苦勉励に勤しむ事は 困難と思われるに付、出発の前は 婚約のみにとどめ、一学を修めて 帰国の後に、婚姻となすべき旨 言上し、老公 長溥は これを容れて 直ちに 家令 黒田一雄に 島津家への通知 及び 諸般の変更を 命じている。

 この 金子の 老公への諌言時、最初 老公 長溥は 金子に対して 厳しくその理由を問い質すが、前記の 金子の説明に 即座に納得している処から、金子への 信任の篤さと 金子の直言を容れて 殿様らしからず、過を改むるに速やかなる処に 金子は 何時もながら 感激している。

 

 八月に入って、太政官より、官吏である 勅任官、奏任官に対して 乗馬飼養令が発布される。

 これは 政府を挙げて 軍馬の改良に取り組む 政策の一環であるが、金子は 乗馬の経験が無く この時、伝を求めて 陸軍の戸山学校に通い 乗馬を習っている。

 そして、金子は この時、自宅の裏の空き地に 厩と 馬丁部屋を新築し 馬一頭を買い入れ、馬丁一人を雇っている。

 

 ちなみに この当時の、金子家の支出の状況が 記録されている。   

 先の 厩と 馬丁の他、門番小屋に お抱えの車夫と 人力車を備え、他に 書生一人、女中四人、母、妻、金子本人の 計十人の生活費が 月間 約 二百圓と 記されている。 

 ちなみに この当時の二百圓を 平成二十五年時の 現価で見てみると、日本銀行の『明治以降卸売物価指数統計』での 概算 約 七十六万円程であるが、これも 一般庶民の感覚的な 重みとしては 三百万円位ではないかと思われる。

  

8. 国体論争


  九月、金子は 参議 佐々木高行より 一通の書簡を受け取る。

 佐々木によると 現在 閣議( この当時 まだ 内閣制度は無く 太政官における 大臣、参議による国政会議 )に於ける 憲法に関する議論で、参議 伊藤博文により 制度取調局 長官の立場から「 憲法の制定によって わが国の 国体は変更される 」との発言が有り、これに対して 佐々木は 異論を唱えているものの 論拠を明確にできず、伊藤の 博識、雄弁に圧されて、反論が敵わぬ状況にあり これに付いて、金子の意見を 乞いたいというものであった。    

 

 これに対して 金子は、「 国体は 時勢の変遷に伴って 変更される 」という説は、国体と 政体を混同した議論であり、間違いである とし 例えば 欧米の 政治学の原理から、一国の政治形態が 君主制から 共和制に変更された様な場合、これは 政体の変更であり、政体とは 我が国における 特有の 政治的名称である国体とは 別の概念である。

 したがって、我が国における 国体とは 古よりの 国学に論じられる、万世一系の皇統を以って 無窮に践祚・継承せられる天皇を戴く、君主国家としての 日本国そのものであり、この度の 憲法の制定においても、国体が変更せられる事はあるまじき事 と論じ、一文を成して 佐々木に提出している。

 

 この後、一日 制度取調局の金子の前に、突然 伊藤参議が現れ、金子の 机の前に座を占めて、佐々木の知恵袋は君の様だが、憲法制定による 国体の変更論に付いて議論しよう、と 持ちかけている。

 伊藤は 政府の顕官に在りながら、こうした 気さくな処が有り、周りに人を集めている。

 伊藤と 金子の議論は、殆んど 一時間にも及び、結論の出ぬまま 伊藤が去り、後 この件に付いて 議論される事は 無かった。

 そして のちの後、伊藤は 明治四十一年に行われた 憲法発布二十周年記念式典における 基調講演で、本憲法の制定は 国体を変更するか 否か、学者間に於いても 議論の成される処であったが、私は 断じて 憲法の制定は 国体を変更せず、政体の変更を成すのみ と考えており 云々、と 述べているが、金子は 伊藤の 伊藤らしさを、微笑みをもって 回想している。      

 

 以前より 金子は 黒田家に於いても 家憲を 制定しておく事の 必要性を痛感して、老公 長溥に対して、家憲 制定の 進言を行うが、老公は 事は重大に付き 考えおく を 繰り返すのみで、進展を見ていなかったが、この年 七月に 宮内省より 華族令が発せられ、各 華族家においても 家政の 紊乱、財産の蕩尽など、不祥事を未然に防ぐ必要から 家憲の制定を求められる事と成り、これを機会にと 十一月に入って、金子は 再度 老公に 家憲 制定の進言を行い、これを 容れられて 草案の起草を命じられる。

 金子は 草案の起草にあたって、黒田家の特色を考慮し、戦国末期から 江戸初期の 家祖 如水、長政 時代の遺訓を基礎として、有馬家など、他の 華族家の家憲をも参考にして まとめ上げ、老公に提出し 承認を得ている。

 

 この後、金子は 老公より、この 家憲の草案を持って 福岡に下り 旧藩時代の 家老はじめ 重臣一同に これを開示して その意見を聴き、しかる後に 決定すべしと 命じられる。

 また、この当時 福岡県では、県令と 県議会の対立から、県立中学校が廃止されてしまい、福岡県民は 子弟に中学教育を受けさせる事が 出来ない状態となっており、これを憂いていた 老公 長溥は、金子に対し 旧藩校の修猷館を再興して 中等教育を行える様にし、その費用を 県議会の議決に頼る事なく、黒田家よりの支出で 賄う事とする様に 重ねて命じている。

 こうした時の 金子は、特に有能であった。

 先ず、金子は 修猷館再興の為に 即座に 文部卿を訪ね、中等学校局と協議して 私立 修猷館中学校の設立と その認可の 内諾を得た後、伊藤参議を訪ね 事の次第を説明して、年末から年始へ 二週間の 賜暇を得ている。

 そして、年末も押詰まった 十二月二十八日の 御用納めの後、金子は 横浜から便船に乗って 福岡に 向かっている。

 

 明けて 明治十八年、年末から 年始にかけて 船中に揺られた 金子は 正月二日 福岡の 黒田家別邸に入り、直ちに 老公の名で 旧藩時代の家老 黒田一美 他 旧重臣ら十数名を招集し、家憲の草案を示して 内容を熟慮の上、意見あれば 具申する様 求めている。

 また 県令 岸良俊介( きしら しゅんすけ )に会い、先に 文部省 中等学校局より 設立 認可の内諾を得ている、私立 修猷館中学の 開校に 種々 尽力を依頼し、五月三十日をもって開校する旨の 公布にこぎ付けている。       

 その後、金子は 再度 黒田家別邸に 旧家老、重臣らを招集して、黒田家 家憲の草案に対して、一同 聊( いささ )かも 異とするところなく、本 家憲の 制定をなせる、老公の英断にかたじけなくも深く謝する旨の、全員の意見を預かり 帰京する。

 帰京後、直ちに 金子は 黒田邸を訪ね、老公に 福岡における 状況、次第を報告して、老公の満足の意と、慰労の言葉を 賜っている。

 

 この年、金子は多忙を極める。

 七月に入って、この頃 北海道においては、明治十五年七月の 開拓使 廃止の後を受けて、北海道開拓行政を担ってきた 札幌県、函館県、根室県 及び 農商務省 北海道事業管理局の 三県一局体制による 拓地殖民行政が、その非効率から 破綻の危機に瀕しており、農商務卿 西郷 従道( さいごう つぐみち )より 北海道行政の 抜本的な改革の必要性が 内閣に具申されていた。                                             

 しかるに、内閣においては、先ず何よりも 正確、詳細な 北海道の現状を、具に識る必要ある として、参議 伊藤博文より、金子に対し 夏休暇を利用して北海道を視察し、その復命と 改革案の提出が 命じられる。 

 これを受けた金子は、太政官 判任御用掛 奥田義人( おくだ よしと )を 随行員として 北海道に向け 視察の旅に 東京を 出発している。

 


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秋霜烈日の人(6)  第四章 明治十八年 巡視、復命、教育ヘ

 

 

 

 

 

  秋霜烈日の人 6.

 


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  第四章 明治十八年 巡視、復命、教育 

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1.  北海道 巡視


  明治十八年七月二十二日 金子は、参議 伊藤博文の命により 随員 奥田と共に、北海道巡視の旅に出発した。

 金子は 新橋から汽車に乗って 横浜に着き、横浜から 便船に乗って 石巻の 荻の浜を経て 函館に着き、函館県令 時任為基( ときとう ためもと )の 出迎えを受ける。

 県令 時任は、参議 伊藤博文の 秘書官 金子の 突然の来訪を、北海道三県廃止問題に関する 調査と考え その 真偽を探るが、金子は 夏期休暇 とのみ答えて 函館に一泊し、翌日 七飯の農場を視察後、大沼を経て 森に至るが、ここまでの道路は 比較的整備されており 馬車で来る事が出来た と記している。

 森から、小型の外輪船で 内浦湾を渡り、当時 一寒村に過ぎなかった 室蘭に至り 一泊している。

 室蘭では 田村顕允( あきまさ )なる人物が、宿に 金子を訪ねている。

 田村は 旧仙台藩の重臣で、維新後 多くの藩士を引き連れて 室蘭郊外に開拓移住し 多くの困難を乗り越えて 開拓を軌道に乗せ、この当時 地元の郡長を務めていた。

 また この時は、札幌県庁から 道案内の役人が来ており、田村と共に やはり 北海道三県廃止問題について 金子の意見を尋ねるが、金子は ここでも、自分には 今のところ 意見は無いので、あなた方の意見を 聞かせてほしいと云うが、皆 黙して語らず、唯 金子の意見を問うのみであった。

 これに付いて 金子は、彼らも 三県廃止等と言えば首が飛ぶし、現状維持を唱えれば 県令の 提燈( ちょうちん )持ち の謗りを受けかねず、難しいところではある と考え、この先 行く先々で 会う人毎に 同じ状況に成る事が予想される為、金子は この後 意見めいた事は問わずに、事実と 出来るだけ 正確な数値データを聴取する事に徹する事としている。

 翌日、室蘭を出てから 登別で 温泉に浸かり、苫小牧で一泊して 札幌に向かう。

 この当時、北海道の道路事情は 函館、森間の道路と 室蘭、札幌間に 馬車の通れる 幅 約九メートルの道路が有るのみで、他は 唯 草木の茂る原野を 馬に乗って踏み分けて行くのみであった と記している。  

 札幌では 月寒の牧場や 千歳の稲作試験場を視察してから 札幌県令 調所広丈( ずしょ ひろたけ )に会って 札幌県の現状に付いて聴取した後、農商務省 所管の北海道事業管理局で 局長の 安田定則より 北海道における 炭鉱、鉄道、製糖、製粉、麦酒製造、葡萄酒製造、製材、紡績、農学校などの 現状に付いて 事情の 聴取を行い、その後 当時 小樽から 札幌を経由して 幌内まで 開通していた 汽車に乗って幌内へ行き、幌内炭鉱を視察した後、石狩川の流域の川沿いを 乗馬にて 探検して遡行するが、鬱林で道無くして 進めず、札幌へ 引き返している。

 

 この時 幌内では、この三年前に開監し、この当時 囚人に 坑内の採炭労働を強制するため 盛んに 幌内炭鉱への 囚人出役を行っていた 空知集治監に付いて、当然に 視察していたはずではあるが 金子が 後の 大正十四年に この時の 北海道巡視の行程を回想して 詳細に記述した〔 北海道庁設置の沿革 〕では 何故か 触れていない。

 また、この 幌内炭鉱 及び 空知集治監とは 石狩川を挟んで 約二十キロ 西側の 須倍都太の地に有り、先に 団 琢磨と その養家の件で 金子の下を訪れていた 月形 潔が、つい この四ヶ月程前まで 典獄( 刑務所長 )を務めていた 樺戸集治監に付いても 当然 視察していた筈であるが、やはり〔 北海道庁設置の沿革 〕では まったく 触れていない。

 この時 金子が、この 空知、樺戸の両集治監を 視察していなかった という事は有り得ない。

 

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樺戸集治監 跡 ( 現在 月形樺戸博物館 )

 

 何故なら、この両集治監は この地域でのみならず 北海道内でも 有数の 国費を投じた大型施設であり、この度の 金子の 北海道視察の目的から考えても 視察の対象から外す事が むしろ 不自然と云えるからである。

 この時の、空知、樺戸 両集治監の視察行に関する記述が、後の金子の視察回想記と云える〔 北海道庁設置の沿革 〕でも、全く 抜けている事に付いては、後述する 釧路集治監 及び 跡佐登( あとさぬぶり )硫黄鉱山に関する記述部分でと、本 第四章の終わりの部分で 今少し触れたい。  

 

 札幌へ戻った 金子は 小樽へ行き、小樽の 築港の計画と その実情を視察してから、小型の汽船で 増毛へ向かう。

 増毛では、この当時 少し先の 留萌との間で、国費による 築港計画の取り合いをしており、金子は どちらにすべきか 比較・調査の為、双方に 上陸して 視察している。

 この時、金子は 築港計画を 留萌とする意見とした様であり、築港は留萌に決定し、このため 後々 留萌は発展して 留萌市となって 留萌支庁の所在地となるが、増毛は 増毛町のままで 現在に至る。

 留萌から さらに 北上して 利尻、礼文の両島に渡り、両島 視察後、稚内に上陸して 陸路を馬に乗って 宗谷岬を回り 枝幸( えさし )まで行ってから 引き返して、稚内に戻っているが、宗谷岬では 旧幕時代の砲台や 牢獄等を 視察している。

 稚内から 再び 小樽に戻り、小樽で 別の汽船に乗り換え、寿都( すっつ )から 江差を経て 函館に戻っている。

 函館では 県令 時任より、函館県の現状に付いて 事情の聴取を行った後、便船にて 根室に向かう。

 根室では 小型蒸気船に乗り換えて、国後島に渡り 瀬石( せせき )、留夜別( るよべつ )を視察している。

 その国後で 金子は、繁茂する樹木が 島の南半部では 温帯に属し、北半部では寒帯に属し、その境界が 割と判然としている様子に 興味を持ったと記している。

 その後 さらに 択捉島に渡り 留別( るべつ )、蘂取( しべとろ )を 視察して、乙今牛( おといまうし )まで行っているが、この 乙今牛が この当時 択捉島で 常時人の住む最北端であった。

  また この当時 国後、択捉には 宿屋が無く、鱒漁の漁番小屋などに 泊まりながらの 視察行であったが、蘂取で見学した 鱒漁の その漁量の豊富さによる 雄大さに 金子は 感嘆の声を上げている。

 国後、択捉から 根室に戻った金子は、根室県令 湯地定基( ゆち さだもと )より 根室県の現状に付いて 事情の聴取を行っているが、根室での一日 金子は 県令 湯地の招きで 根室県の 裁判官、県官、郡長、実業家などを集めた宴席に出て、北海道開拓に関する 懇談に応じている。

 この宴席で、柳田藤吉と云う人物が、東京から視察に来る役人は、夏休暇の避暑がてらに来るので この地の冬の厳しさを知らないに付き、金子君も 北海道開拓の計画を論ずる為には 一度 冬季に来て視察したならば、その後の議論に付き 我等も謹聴すべし と詰問調に談じている。

 これに対して、金子は 柳田に 根室の冬季の最低気温は何度くらいか、また 氷結した根室湾の氷の厚さはどの位になるかを尋ね、柳田は 気温は 摂氏 マイナス十七度くらいで、氷は 湾の沿岸部で 六センチくらいと答えているが、金子は そのくらいの寒気ならば、再来の必要はない、何故なら 自分は 先年、米国のボストンに留学し、彼の地で 約八年間を過ごしているが、ボストンも 厳寒の地で、冬期は 摂氏 マイナス 二十三度くらいになり、ボストン湾では 六十センチくらいの厚さに氷が張り 氷上を馬そりが行きかうほどの所で 厳寒の冬季の事情は充分に承知している と述べ、これに対して 柳田は 金子の膳部の前に来て 頻りに陳謝した とある。  

 根室からは 陸上を乗馬で 浜中を経由し 厚岸( あっけし )に着き、金子は 厚岸湾のカキの養殖状況を視察して これも その壮大さを称賛している。

 

 厚岸から 釧路に至り、釧路では築港の状況を視察してから、騎馬で 釧路川の上流約百キロの 屈斜路( くっしゃろ )湖岸にある 跡佐登( あとさぬぶり )硫黄鉱山の視察に向かうが、折からの豪雨で 川の氾濫の恐れが有り 危険との事で 釧路へ引き返している。

 この時、金子らが どの辺まで行って 引返したのか定かで無いが、この釧路川の上流 約四十キロの 標茶( しべちゃ )に この時から 約二ヵ月後に 開監する 釧路集治監が有り、この時はすでに 建物、設備が ほぼ完成して 一部の囚人を 空知集治監より移送していた筈であるにも拘らず、この釧路集治監に付いても 金子は 後に、今回の北海道巡視の行程を詳細に記述した〔 北海道庁設置の沿革 〕で まったく 触れていない。

 この 釧路集治監でも 後に 跡佐登硫黄鉱山への 悲惨な 囚人出役問題が起きている。

 

 金子が この釧路 及び 先出の 樺戸、空知の三集治監に付いて、具に視察していたであろう事は 紛れのない事と思われ、実際に この視察行を終えて帰京後、太政官に提出している〔 北海道三県巡視復命書 〕に 付属の〔 北海道開拓建議七箇条 〕の 二、に 道路開鑿の議 を述べており、この中で 北海道の原野に道路を開鑿する 過酷な重労働に、これら集治監に収容する 囚人の使役を提言しているが、にも拘らず 後の 金子の〔 北海道庁設置の沿革 〕では、視察行の 他の視察部分に付いては、本書の 第四章に 見る様に、詳細に記述しているにも拘らず、 三集治監の視察部分だけが 抜けており、この事は 本書の主題に関る部分とも云えるため、本 第四章の終りで さらに触れたい。    

 

 金子は 釧路での滞在 数日で、根室から釧路経由の 函館行きの便船に乗り、函館に着後、函館の近辺を視察してから、東京行きの便船に乗り 十月二日 帰京している。

 

  

2.北海道三県 巡視復命書


  こうして、金子は 約七十日間に亘って、乗馬、徒歩、船を用いて 可能な限りの広範囲な 道内視察を 行っている。

 そして、この視察行で 金子は、多くの人の意見を聴き、客観的な統計データを集め、個別案件については 担当役人に質すなどして 北海道三県一局体制の現状を詳細に把握し、こうして得た 見聞に 推敲を重ねた上で 北海道開拓の将来への展望を、太政官 及び 命令権者の 伊藤参議に報告しており、この時、提出された巡視報告が、〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開拓建議七箇条 〕であった。

 本書においては、この〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開拓建議七箇条 〕から 金子の ズバ抜けた能力の一端を知る事と、問題の「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば 」に関る部分を その前後の 文意、文脈の関係を含めて これを明確にする意味で、本書著者による 要旨の意訳 全文を 以下に掲載した。

 

◎ 北海道三県 巡視復命書

 

○ 三県一局制の廃止に関して。

  金子は、以下 三点の理由により、現状の三県一局制( 内務省所管の 函館、札幌、根室の三県 及び、農商務省所管の 北海道事業管理局 )は 廃止すべし とする。

 

1.三県庁と 事業管理局間の関係が、極端に円滑を欠いているに付き、殖産興業政策など 相互にわたる事業について、重大なる 事務渋滞を招いている現状が有る。

また 政令が 県庁、管理局の 二途から出る状態に 道民、大いに難儀の状況にある。

 

2. 三県庁の施策の基本は、殖産興業を推し進めて 社会基盤の整備と 民生の安定を図る事にあり 一方 事業管理局については 事業経営を目的として 営利を求める事にもあり、相互に意見を異にしながら その調和に努めないため、開拓行政に大きな支障をきたしている。

 例えば 管理局の事業である鉄道では、札幌 ― 小樽間 約八里( 三十二㎞ )の 米一石を運ぶ運賃が 四十銭で、これは ほぼ 同距離の 東京 - 横浜間の 米一石を運ぶ運賃 六銭の 約七倍弱であり、これに付いて、県庁側は 運賃を下げる事で 物流を活発化させ 開拓事業に資すべき とするのに対し、管理局側は 内地と北海道の状況の相違と、鉄道事業は 営利を目的としており、利益を上げる事で 新たな路線への再投資も可能になる 等を言いたてて 歩み寄る事がないため 開拓行政に大きな支障をきたしている。

 

3. 三県と一局が それぞれ 重複する事業を起こす事で、効果の少ない 国費の二重投資となっており、例として、事業管理局が 函館、札幌、根室管内に 農業事務所を設けて 殖産興業の実務を執っているのに対して、三県庁は それぞれの管内に 勧業課を置き さらに 勧業試験場を設け、重複する 同一の事業を それぞれが行う事で 効果の甚だ少ない事業に 巨額の国費投入が行われている。

 さらに甚だしい 一例として、根室県では 千島列島 警備のために 汽船一隻の購入を企図し、その費用 六萬円( 約 二億五千万円程 )と 爾後の運用費として 毎年参萬壱千弐百円を 内務省に予算請求しているのに対して、同時期に、事業管理局 根室農工事務所は、同じく 千島諸島地域における 外国密漁船の取り締まりに 風帆船二隻の購入を企図して、農商務省に 壱萬円の予算要求を行っているなど、重複する事業に 重複投資する事で 巨額の国費が浪費されている。

 

 

○ 北海道事業管理局の現状と問題点。

  金子は、北海道事業管理局の 現状と問題点に付いて 極めて 詳細に、実例と 数値データを挙げて下記 三点を指摘している。

 

1. 北海道事業管理局は、明治十五年二月に 北海道開拓使が 廃止された後の、開拓使が行っていた事業の内、函館、札幌、根室 三県の各県に跨る事業で、且つ 開拓使と同時に廃止しては、巨額の損失を被る事業に付き、これを継続 引き継ぐ形で所管する為に、農商務省内の一機関として設けられているが、維持し難き事業を廃して 貴重な国家予算の 他の有望事業への 速やかな振り向け断行が 必要あるにも関わらず、現状の管理局では これを成し得ず。

 

2. 管理局の事業は 営業主義を持って経営を行うにも拘らず、その 官業による 非効率なるが故に、極端に収益性が悪い上、高給の官員を多く抱え、凡そ 事業管理の態を成していないが、炭鉱、鉄道、製糖、製粉、製網、麦酒・缶詰製造などの事業は、北海道に適した 有望事業であるに付き 速やかに 新事業体において 引き継ぎ、北海道殖産興業の中核と成すべし。

 

3. 現状、管理局の事業中、葡萄酒製造 及び 札幌農学校経営の二件は、最も 北海道の事業に適さず、速やかに再考の要あり。

先ず、葡萄酒製造は 原料の葡萄自体が、温暖 乾土に適す植栽に付き、北海道のごとき 寒冷 湿潤の地では 豊穣なる収穫は望め得ず、この様な地での 葡萄酒製造は無益の事業成れば、継続の必要を認めず。

 また、札幌農学校に付いては 北海道拓殖の最重要機関との位置づけも有るが、これは 机上の空論と云え、例えば 英米の植民地農業の実態を見るに付き、農学校などの設置無くして 一般の 農業従事者により 耕地の拡大 及び 生産性の向上は 充分に図られており、拓殖農業に 高邁な農業理論は不要である。

特に、札幌農学校の現状は、米国より招聘の教師による影響から、学理的な 農業理論の教授内容に偏り 高尚に過ぎて、北海道拓殖の実業に効果を上げ得ず、速やかに 実学教育の実践に改革あるべし。

 

 金子は、事業管理局の現状と問題点に付いて 以上の様に述べているが、特に この当時 札幌農学校について、設立当初 初代教頭として、米国 アマースト農学校( 現、アマースト大学 )より招聘した ウィリアム・スミス・クラーク教授( 「 青年よ大志をいだけ 」の有名な クラーク博士 )の人脈に連なる 教職員による 多分に キリスト教的要素の加わった 理想主義的な 教育・指導が行われていたが、金子は 自身が 米国留学中に アマースト農学校を視察しており、その見聞から アマースト農学校における 教育・指導が、学理的な 農学理論に偏重しており、現状 北海道の拓殖実務にそぐわぬ実情を 指摘している。   

 

 

○ 北海道 三県 県治の現状と問題点。

 金子は、三県による 県治の 北海道に適せざる要点に付いても、詳細な実例から 下記六点の 現状と問題点を指摘している。

 

1. 明治十五年二月の 開拓使 廃止後におかれた 三県の県庁による政務は 主務省である 内務省の方針で 務めて 内地の県政に倣うものとしており、北海道の実情にそぐわぬものが 多くあるために 事務百般に渋滞を招いている現状である。

 特に 租税、教育、警察、勧業などに関して 唯々 その事務処理に 汲々としている現状から、凡そ 最重要たる 北海道拓殖に関する 新たな政策を 企図する余力が無い。

 

2. さらに、内地の県政に倣う弊として、三県 それぞれに 奏任官( 上級官僚 )たる 収税長( 税務責任者 )、警部長( 警察業務責任者 )を 置かざるを得ず、これは 北海道全域に 収税長、警部長 各一名を置き、函館、札幌、根室 三県に それぞれ 税務 及び 警察の実務者を置く事で 足りる話である。

 また 収税事務の厳重化を求めるに付き、煩雑な事務処理と 多額の費用を要している。

 この一例として、根室県 下上川郡の 一民間人が 濁酒二石( 144リットル )を醸造した事に付き、約七十里( 280キロメートル )離れた 民間人宅に 税吏を派して徴収した税が 二圓で、この徴収に要した費用が 二十数圓となっており、これも 内地における制を 広大な北海道に布く事の弊害と云える。                 

 

3. 三県における、普通教育に付き その学制の施行をも、総て内地の制に倣う事としており、為に 北海道の実情に 合わざる実態が 甚だ多し。

 一例として、北海道に 僅かに開けた 札幌等の 都市部の学校を除く、大部分の地域における 小学校では その生徒のほぼ 総てが 農業、漁業の開拓民の子弟に付き、その家業の実務から 拓地植民までの 実業に益する教育が必要にもかかわらず、これらの 開拓民の子弟である 小学低学年の児童に 哲学的な修身論から 漢学の論語の教授などを行い、また 最も必要とされる 農業関連では、農業化学などの 高尚な学問教授に偏向しており、また 三県一局制の前の 開拓使時代は 全道の各小学校の付属地に 実験農場を設けて 開墾・耕作の実務を教授していたにも拘らず、三県制後は 総て 内地の制に倣う事として 廃止され、これら 実験農場は土地を収公されて 官有地となっている。      

 

4. 三県における、衛生状況に付いて見るに、幸い 北海道においては 最もおそるべき 伝染病の蔓延が 少ないにも拘らず、全道に 驚くほどの梅毒が蔓延しており 農・漁民、先住民の別なく、昨今は 良家の子女にまで 罹患が見られる状況に有り、年々 梅毒による死者数の増加が懸念される。

 また、罹患者の内 死に至らざる者も、その病毒が子孫にまで及ぶため 事態は深刻である。

 明治十五年の 函館県の例では、全病患者数 38452人中、梅毒罹患者数が 4291人と 約8人に1人が 梅毒患者という事態が有り、これに対する 県庁の対応は これも 悉く内地と同一の成規による対応に固執し、患者の種類、死亡年齢 等の 統計実務を執る事に 汲々として、何ら有効な対策が施されておらず、これも 内地の制に倣う 三県制の弊害というべし。

 

5. 三県においては、事の大小にかかわらず 事業を 企画して起こすに当っては、先ず 政府に上申し、内地と同一の成規に基づき 主務省の各局において審査を受け、数多くの手続きを経て後 認可される事となるため 無用に多くの日時を要して、開拓・殖産に従事する 道民の喫緊の求めに 応じる事が出来ず、これも 三県制の弊害というべし。       

 

6. 現状の 三県の県庁 及び 郡役所における 職務章程を 詳細に検討するに、常に 実務処理上 同一事案を 重複処理する事項が数多く存し、一例をあげれば 一道民が 地券( 土地の権利書 )の交付を申請時、先ず 郡役所において 土地を検査し 地量を測定して 申請を県庁に上げ、県庁にて 県吏を派して、再度 土地の検査、地量測定を行い 審査した後に 地券交付となっている。

 この様な 同一事案の重複処理を行うために要する、多大な費用と時間、労力の無駄を省き これら費用を 速やかに 他事業の運用に資するためにも、三県の弊害を改むべし。

 

 

○ 国税、地方税外の 協議費に関して。

  金子は、明治十五年二月の 開拓使 廃止に伴う 三県一局の設置後、一般の道民が その資産に受けた影響に付いて、金子の調査によれば 税務上や、その他 政府貸付金返済などの 義務、負担が大幅に増加し、これが為 開拓・殖民に対する 民間の活力が 著しく失われている状況にあり、これに付いて 下記の様に述べている。

 

1. 明治の初めころより 政府は 開拓使を通じて 道内の殖民奨励を目的に 盛んに 道民宛に 官金の貸下げを行っているが、これらの金員は 厳然たる貸借とされるものの他に、殆んど 下賜金に近いものまで含まれながら、開拓使の廃止から 三県制への移行時に、一律に 貸借金として 年賦償還法を定めて処理され、その徴収を 三県庁に委任する事としたため、殆んどの借財道民は その返済に苦しむ状況で、新たな殖産開墾への余力を無くしている状況にある。

 明治十八年三月時点の 根室県内の道民に対する貸付金の総額が 六十六万二千九百十七圓となっており、この内訳が

 

    ・  救助貸付                              六十五圓 

    ・  勧業貸付                十八万五千九百三十三圓

    ・  雑貸付                二十七万一千三百八十二圓

    ・  旧佐賀藩貸付                  一万三千四百五圓

    ・  雑収入貸付                    四千三百九十二圓

    ・  繰替貸付                  十五万一千百二十九圓

    ・  償利寄托                      七千九百六十五圓

 

        合計                    六十六万二千九百十七圓

 

で、これは 根室県の人口 16811人に対して 一人当たり 三十九圓( 現価で 約15万円程であるが、一般庶民の 感覚的な重みとしては60万円程度か )となっている。

 

2. 開拓使の廃止から 三県制へ移行後、道内 三県の町村においては、地域毎の 学校、病院などを運営する 公共事業費に付いて、受益者たる 地域住民より協議費として徴収を行って 運営しており 、これら 住民は 国税、地方税を徴収されて 尚、この協議費を徴収されているため、甚だしい重課税となっているが、これらの 滞納者に対する 三県庁の手続きは、財産 差し押さえ、公売処分としており、過酷と言わざるを得ない。

 例として、道北 利尻島では 人口 200人に対して 明治十七年度の協議費は 千九百圓となっており、一人当たり 九圓五十銭( 現価で 約35000円程 )を、国税、地方税と 別途に負担となっている。

 これら 三県施政の大きな矛盾点は、政府が道民の拓殖、開墾奨励の為に 多額の補助金交付を行っていながら、一方で 三県庁は 過酷な協議費の滞納者の財産を差し押さえ、公売に付している点などが有り、この様な状況で、北海道に拓植民の増加を図り、開拓の実を挙げる事は 甚だ難しいと言わざるを得ない。

 

 

○ 年間経費、官吏総数に付いて。

  金子は、明治十五年の 廃止直前の開拓使の年間経費( 決算ベース )と、明治十七年の 三県の年間経費( 同 )を 比較し、さらに 廃止前の 開拓使の官吏総数と、現在の三県の官吏総数を比較している。

 

経費の比較

 

開拓使経費

  明治十三年度 決算 ・・・ 二百十八万四千三百五十六圓

 

三県経費合計

明治十七年度 決算  ・・・ 二百二十万二千百七十七圓

 

 

比較 三県経費増加額  ・・・ 一万七千七百五十一圓

 

 

 

官吏総数の比較

 

明治十五年 開拓使 官吏総数    ・・・ 1295名

 

明治十七年 三県 官吏総数      ・・・ 2772名          

 

比較 三県官吏増加数           ・・・ 1477名

 

 

 となっており、経費、官吏総数とも 現 三県の合計が、開拓使当時よりも 大幅に増加している。

 特に 経費では、開拓使当時は 全道の 全行政に付いての経費であり、現在 全道に跨る行政、施策経費に付いては、別途 北海道事業管理局が計上しており、三県の経費は 三県の 地域行政経費の合計額であるため、実質では 実に大幅な増加をみている事となる。

 官吏総数に至っては 二倍以上の増加で、これらに要する人的経費によって、本来 北海道開拓事業の拡大再生産に費やされるべき 貴重な財源が蚕食されているにもかかわらず、ここでの 最たる問題は、費用・官吏の 大幅な増加にもかかわらず、北海道 拓務行政の発展は 些かも認められず、むしろ 衰退気味の観すら有る点である。

 

 

○ 北海道全土の詳細なる測量の重要性に付いて。

 金子は、北海道の開拓行政に最喫緊の課題は、全土の詳細な測量であるとして、以下の提言を行っている。

 明治初年より、政府の開拓行政は すでに 十数年を費やしているにも拘らず、先の 開拓使から 現状の 三県一局制においても、その 開拓の実を挙げ得ているとは言い難く、然るに ここに 新たに北海道殖民局( 後に 北海道庁として設立される事となる )を 新設して、大改革を行うに当っては、海外の植民政策を参照して 現状の開拓事業中、継続すべきもの、廃止すべきものの、机上整理を行う必要が有るが、参照すべき 海外の 殖民政策では 長年 植民地経営に取り組み、実を挙げている 英国の殖民論を 参照する事が適当と考えられ、英人 トマス・ペイン や コットン・マザーらの著作から 道内測量の重要性に鑑み、次記四点に付き 新設する 殖民局において 早急に取り組むべきと考える。  

   

1. これまで 開拓使によって 測量、作図された地図は、北海道全域をカバーするものは無く、一部地域のみ、精密な 三角測量を持って制作されたものが有るが、詳細に過ぎて、拓地・殖民事業に供するは 不向きなものである。

 先ずは、北海道全土の概略を測量し、分図の上 市街、村落、耕地、秣場、森林の位置関係、山川原野の概略、地味水利、気候、生産物の概要 などの他、市街、村落間の遠近や 道路水運の景況等を 詳記したものを 小冊子として 配布し、北海道 先住民 及び 移住民の便に供する必要が有る。

 

2.  道内 港湾の測量に付いては、函館、小樽、室蘭、森 等では 波止場の改築と 港内の測量が 成されているものの、他の地域に付いては 天然の湾内を 港湾とし、その 湾内の 深浅、暗礁の位置、航海の難易を記したものが無く、現状は これより 二十年程前の幕末時代に 英人が測量し 記した 甚だ 不正確な海図が用いられ、多くは 船長の感に頼らざるを得ない状況にある。

 正確な海図無きための、船舶航行の障害は、移住民の渡航、物資の運搬に多大の難儀をもたらしており、北海道の殖産開墾の実を上げるためにも、早急な 全土の港湾測量と 海図の整備が必要である。

 

3. 道内の道路事情は 札幌 及び 函館の 近辺以外は 全く 道無しと言っても過言でなく、物資の運搬はもっぱら 人馬の背に頼るのみで、冬期の雨雪の時候では ほぼ 物資の流通が止まるため、経済活動停止となる。

 このため、食料品、日用品の価格では 運搬費用が 現価を大きく超える他、農産物の出荷でも市場の価格は 出荷原価に 大きく 運搬費用が 加算されている状況が有る。

 この様に 開拓殖民事業の 障碍となっている道路事情 改善の為に、早急に 全土の測量を開始しての 道路開鑿が 喫緊の課題である。     

 

4. 北海道の 開拓行政においては、先ずは 全土の測量と概略地図の作成、次に 港湾の測量、海図の整備 そして、道路網の開鑿の三点が 最も 優先すべき課題であるにも拘らず、これまでの 開拓使 及び 三県一局制による 開拓行政では、着手すべき 本末が転倒しており、本来 全土測量、港湾整備、道路開鑿等の 重要施策がなされた後に行ってしかるべき、札幌の豊平館( 開拓使の迎賓館 ) や、農学校、師範学校、葡萄酒製造所の造営など 不急の事業に、多大な開拓資金の投入がなされている。

 

  

3 .北海道開拓建議七箇条


  続いて、この 北海道三県巡視復命書 に 付属で 添付された 北海道開拓建議七箇条 を解題する。

  

◎ 北海道開拓建議七箇条

  

○ 第一条 明治五年 第304号布告 北海道土地売買規則 第6条改正の議

  現状、北海道においては 実に広大な沃野が存在するにもかかわらず、その大部分が開拓されず 原野のまま放置されており、新たに 開墾・開拓を目指す 開拓民が入植して 土地の払い下げを求めても すでに 開拓適地の 市街地近郊、及び 国道、港湾、鉄道などの近傍地は、将来の地価騰貴を目論む 内地の華族、官僚、豪商らによって買い占められている現状が有り、この事が 現在 北海道開拓の 大きな妨げとなっている。

 これらへの 対処法として 北海道土地売買規則が存在し その第六条で、北海道において土地を取得したる者は、一定期間内に 開墾・開拓の実を上げざる場合 当該土地を収公する、と定めているものの、将来の地価騰貴を目論む 内地在住の地主連は、例えば 一万坪の土地を所有しながら 期間内に1坪 乃至 2坪程を開墾し、開墾の実を上げ得たとして 収公を免れている様な実態が有る。        

 この様な 笊法というべき、北海道土地売買規則 第六条を速やかに改正して、実際に 開墾・開拓を目指す 入植開拓民の土地取得を 容易ならしめる事が、喫緊の課題である。

 

 ○ 第二条 道路開鑿の議

  北海道には 広大にして 肥沃な大地が広がり、気候 寒冷といえども 良く 耕かされた農地では 米穀、綿類 以外の 麻、麦、桑、大豆、小豆などの 物成りは 実に豊かで有るが、肥沃の大地が有っても 開拓せねば 荒野に過ぎず、物産が有っても 運輸の手段がなければ 無きに等しい。

 また、北海道にては 農産物の他 木材資源や、鉱物資源、海産物資源に恵まれ、特に 海産物は無尽蔵と言える程であるが、これ等の有用資源は ほとんどが 手つかずの状態にある。

 これら 有用資源の活用は、何はともあれ 物流手段の確保が 先決である事は 言うを待たないものの、現状の 北海道の物流手段を見る時、陸運において 辛うじて道路たるものの整備されている ところは 函館、札幌間 約四十六里( 約184km )のみにして、他は 茫漠たる荒野を 徒歩あるいは 馬の背にゆられて行くのみで、極めて細々たる 陸運物流の状況にある。 

 一方 海運の状況も同様で、沿岸は暗礁が多い上 良港が少なく、且つ 春季、冬季は 海表面の凍結と、夏季、秋季は 濃霧の発生で 熟練した航海士による 慎重な航行を必要とするため 海運物流の大きな 妨げとなっている。

 こうした状況に鑑み、北海道開拓のための 喫緊の課題は 何よりも 早急に 札幌、根室間に 道路を開通させ、道東地域の開拓促進、同地域の物産資源の流通を図るため、以下の施策に付いて 強力に 取り組む必要が有る。

 

1. 札幌、根室間の道路開鑿事業の為に、先ずは 道路委員を任命して 早急に 詳細な調査、及び 精密な測量に着手して、札幌から 石狩原野、空知、上川盆地を経て 十勝川沿岸を下って後 東進して根室に至る 詳細なルートの確定と これまで 札幌県庁によって策定されている 札幌、根室間の道路開鑿 概算里程 約百四十里( 約580km )、及び 概算費用 約 百萬圓 から これをもとに 正確な 里程、費用を算出し 政府への 予算要求書 提出準備を行う事。

 

2. 道路開鑿ルートの決定後は、速やかに 工事の着手を目指す事とするが、これらの 開鑿ルート中では 人跡未踏の密林伐採や 険阻な山嶺の平坦化、河川谷地の排水、架橋などの 著しい 難工事となる事が想定されるに付き、一般の工夫では 高賃金となって 予算を圧迫する可能性と、その労役に耐えざる可能性もあるに付き、札幌県下の 樺戸集治監 及び 根室県下の 釧路集治監に収容している 囚徒をこの労役に服さしめる事とする。

 これらの 囚徒は、固より暴戻の悪徒に付き、過酷な労役に堪えず 斃死する場合も、一般の工夫が妻子を残して 山野に屍を晒す惨状とは 自ずと異なり、また その 日当賃金も 一般工夫に対して 集治監の 囚徒ならば、その半額以下に 抑える事が可能である事と、今日 多数の重罪人を収容する集治監において その囚徒を 道路開鑿の 過酷な労役に服さしめる事による 斃死などで その減少をみる事は、莫大な 国庫支出となっている監獄費節減となる事でも有り、一挙両全の策というべし。

 

3. 北海道の土地は 湿地帯が多く、一旦 開通させた道路においても 降雨期などには、水没して 通行の用に 成し得ざる可能性があるに付き、道路の開鑿工事と並行して その沿道に 排水路を確保する工事が必須である。

 これらの 排水路を完備させる事により 降雨期の道路保護のみならず、開墾地への農業水利としての利用や、小型川船による物資運搬、沿道住民の生活水利用など、多くの利便性が期待出来る。

 

4. 新たに道路を開通させ、排水路を通したとして、沿道が無人のままでは その 荒廃が危惧されるため、沿道適地に 屯田兵を配置する必要がある。

 これら、屯田兵配置の利点は、戦時における 北海道 及び 北方の警備に従事は固より、平時は 開墾、牧畜などに従事の傍ら 道路、排水路の保守、近傍の警察業務、駅逓業務に従事などを 併せ行わせる事により、警察予算 及び 駅逓補助金などを 減じる事が出来 これも 一挙両全の策といえる。

 これらの 屯田兵に付いては、皇室直属の身分を与える事や、屯田入植後十年間は免税とするなどの処遇を行って、その入植後の 困難を極める屯田事業に 報いる施策を考える事とする。 

 

 

○ 第三条 殖産会社設立の議

  現在、北海道における殖産の状況は、陸産物、海産物を問わず ほぼ 無尽蔵とも言える程の 物産豊富な状況があるにも拘らず、その生産者は 極めて零細にして、それらの豊富な生産物の 流通手段を持たないため、人の背、馬の背に頼る 運搬仲買人によって 極めて低価格な買い取りを許容せざるを得ない状況にあり、この様な状況の打開策としても、道路網の開通、整備が 急務であると共に、物産の生産者に対して 安定した価格で それら物産を買い取る制度の整備が喫緊となるため 道内物産の幅広い 買い上げ、流通、及び 内地への輸出を担う、以下に述べる態様の 殖産会社設立が急務である。

 

1. 設立する、殖産会社は 本店を函館に置き、主な物産の生産地に支店を配して、生産者より物産の買い付け時は、買い取り価格の八割を 生産者に 現金にて支払い、買い取った物産を 各地に集積して 内地、他へ輸出、売却後に 運送費、倉庫料、保険料、手数料を差し引いた残金を 生産者に支払う事として、因みに 根室県にて生産の 昆布 百石の、現状の売捌と 殖産会社による売捌を 試算して比較した場合、上海( 中国 )での売却では 二十圓、函館の売却では 八圓、それぞれ 利益増となる事が 判明している。

 

2. 北海道よりの 物産の海運 積み出しは、その 輸送費用が高額となる為、著しく 流通に支障をきたしている現状に鑑み、新 殖産会社が積み出しする 北海道の物産に付いては、半官営の 日本郵船会社の 船舶輸送 利用時に、保護特例として 運賃の 一割五分 乃至 二割の 割引適用とする処置を とれる様にする 必要がある。

 因みに、現状 根室県 択捉にて生産の 鱒 百石の代価は 百二十五圓であるが、この 東京までの運賃が 二百三十圓となっており、また 函館より 昆布 百石を、中国の上海へ運ぶ場合、中国人が中国船を使って運搬する場合の 三十圓に対して、日本の商船を使う場合、百二十圓となっており、この様な 現状を改革せずして 北海道殖産の隆盛は 望むべくもない状況にある。

 

3. 現状、海産物等は、海岸線に沿って 生産地毎に集積している為、運搬船は、それら集積地ごとに接岸、乃至は 艀による荷積みを行っている為、運搬船が 天候不良などで、一定期間 海岸線にとどまれない様な場合、空船で帰る様な事も有る為、これらも 運賃高騰の要因となっている。

 これらの打開策として、新 殖産会社によって 地域の主要な港に倉庫群を建設して 運搬船は主要港間のみを航行して、荷積み 集荷が可能とすべきである。          

     

4. 明治の初めころより 政府が 開拓使を通じて 道内の殖民奨励を目的に、一般道民に宛 官金の貸下げを行った金員に付いて、これらは、殆んど 下賜金に近いものまで含まれながら、開拓使の廃止から 三県制への移行時に、一律に 貸借金として 年賦償還法を定めて処理されており、その徴収を 三県庁に委任する事としたため、殆んどの借財道民は その返済に苦しむ状況にある点を 先述しているが、明治十七年時点の これら 貸借金の金額は、根室県のみを見ても

 

六十六萬二千九百十七圓

 

となっており、一案として これらの返済金を 借財道民が納入した場合、その見返りに 新 殖産会社の株券を交付する事としたならば、借財道民にしても 殖産会社による 道内開拓促進によって受ける 利便性の向上と、殖産会社による 利益金を 配当金として配分を受けられる事から、返済金納入の促進となり、貸借金返済問題の 早期の解決策ともなり、これもまた 一挙両全の策というべし。

 

 

○ 第四条 物産税と出港税の区別を廃し 単に出港税を課するの議

  欧米諸国の 植民地税制をみると、ほとんどが 無税とするか 課税するにしても 極めて薄税としており、これは 無人の荒野の 困難な開墾・開拓に努める 一般の開拓民に対して、税制面での優遇処置を施す 拓植奨励の政策であり、一方 現状の 我が国 北海道における税法では、物産税 及び 出港税の二税を課す法としており、この内 物産税に付いては 収穫物の 五分 ~ 二割 としているものの 課税基準が曖昧で、収穫物、収穫量に関らず 課税地によって その課税基準が変わると云う 不公正な税制となっている他、課税額確定の為の調査と その徴税に 多大な手数と 費用を要しながらも、特に、課税額確定の為の調査事務と その実際の徴税は、煩雑を極めており 多くの場合 徴税の為の費用が、徴税額を上回っている現状となっている。

 そして、これらの課税による 現状の北海道民の税負担状況を、内地県民と比較してみた場合、国税、地方税、協議費賦課金などの 合計の徴税額が

 

北海道三県              

徴税総額 百十四万五千五十一圓      

人口1人に付き 四圓六十三銭

  

滋賀県   ( 最多負担県 )

徴税総額 二百二十四万六千百八十圓

人口1人に付き 三圓五十八銭

  

鹿児島県 ( 最少負担県 )

徴税総額 二百四万七百八十六圓

人口1人に付き 一圓六十銭

 

東京府                  

徴税総額 二百五十三万五千八百四十圓

人口1人に付き 二圓二十四銭

 

 と なっており、北海道三県の 住民一人当たりの税負担額が、内地における 最多額負担県の 滋賀県よりも高く、平均的な 東京府の約二倍、最少負担額県の 鹿児島県の 凡そ 三倍となっている。

 この様な状況に鑑み、北海道民の 税負担軽減を図るためと、徴税事務の抜本的な改革を行う事として、先ずは 比較的 徴税事務量の軽い 出港税のみを残して、一方の 物産税を早期に廃する必要がある。 

 

 

○ 第五条 千島警備の議

  千島群島は 根室県の管轄域となっているが、明治十七年に 列島最東端の占守島(しむしゅとう)の原住民 数十名を 色丹島に強制移住させてより、現在は 人の住む最先端が 択捉島の 乙今牛( おといまうし )となっており、広大な列島域に広がる 島々は 総て 無人島となっている為、ロシア国と国境を接している 占守島周辺での国境警備は 現状 皆無の状態となっている。 

 

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この様な状況下、ロシア国の南下阻止と 近辺資源の密漁者捕縛の為に 千島警備は喫緊の課題であるに付き 以下の施策を行う。

 

1. 千島群島中 最大の島嶼である 択捉島に屯田兵を配して、千島全島に関る 警備 及び 警察、逓信などの 業務に就かせる事とするが、当初より 多数の兵員を配置する事は 巨額の費用を要する為毎年度 一定数を配する事で 漸次 増加を期する事とするが、千島群島中 最大の択捉島は 丘陵地が過半を占める地形に付き 農事開墾に向く土地が 比較的少ない事も有り、この地に配する 屯田兵は 漁業、牧畜を主務とする。

 このため、屯田兵の漁獲による 鮭鱒の他、牧畜による 牛馬などの 海産物、畜産物加工の為に 択捉島に 缶詰工場を設ける事とする。

 一方、比較的 農事開墾に適す 肥沃な土地と、温暖な気候を有す 国後島では 農林業、牧畜業を 屯田兵の主務とする。

 また、アザラシなどの小動物猟も有望な資源と成り得るため これらに付いても 屯田兵業務に加える事を可とする。

 

2. 択捉島に配する 屯田兵による、千島警備の実を上げるために、汽船を一艘 千島近海に配して 解氷期から 結氷期までの間 千島諸島を巡回させて 官民の行旅、物資の運搬、屯田兵による警備、密漁船取り締まり などを行わせる事とする。

 また、千島諸島の 結氷期には 汽船を 札幌、函館地方に回航させて これらの地での 物資運搬などに従事させる事として、その収益を 千島警備の費用に充当する事とする。

 

3. 択捉島に配する屯田兵の 汽船による千島群島の警備活動には 限界も有るに付き、解氷期から結氷期の間、海軍省より 軍艦を派遣して 屯田兵による警備活動の補完を行わしめる事とする。

 また、北海道中 特に 千島群島海域は 近海の測量が甚だ不完全で 正確な測量に基づく 海図の作成が 喫緊の課題ともなっている事から、海軍省 派遣の軍艦による 正確な測量、海図の作成を 併せて行う事とする。       

 

○ 第六条 北海道の普通教育法を改正するの議

  先進の 欧米諸国の殖民行政において、特に 教育行政については、専ら 実利・勧業に利する 実業教育に重点を置く政策として、先ずは 実業学校を設置して 農林・漁業実務の普及に努めて 一日も早い 社会基盤の安定に寄与する教育を施す事としており、文化的な 知育教育などを施すための学校の設置などは、順序としては 最も後に行う事が一般的である。 

 然るに 現状 北海道においては、明治初年に 開拓使によって設立された 札幌農学校、師範学校などが有り、その高尚に過ぎる 教育内容から考えて、これらは もっと道内の民生が安定し、社会基盤の整備の成った後の設置で良いと考える。   

 

 一方、初等教育行政では これも すでに安定した社会基盤を持つ、内地の教育事情に 極力 準ずる事を是としている為、未だ 安定した社会基盤を持たず 明日の糧を得るために ひたすら殺伐たる原野の開墾に汗を流す、一般の開拓民家の 八、九歳の童子、子弟に対して 明治以降に大人になった様な教師らにとっても 理解の難しそうな 古文調の 小学初級読本を教科書として教え、実業教育においても 凡そ 今日、明日の 農業実務に役立つとは思えない 一般化学の基礎などを教えており、実例として 米穀類は炭素を含み、楓は糖類を含有するなど、また 肥料に付いては その化学成分の含有比率等など、学問的な机上の理論を教える事としており、その他 修身の科目などでは、哲学的な 高尚に過ぎる内容の教育が、何ら 検討を加えられる事無く施されている為、まことに 実情から乖離した教育が 施されているのが現状である。     

 この様な 現状の教育を 改革する為に、以下の施策を 行う事とする。

 

1. 現状の 学校における 無形、高尚な教育を改めて、実利を主義とし 拓地、植民に益する、実学教育を施す事とする。

 

2. 未だ 社会基盤 未整備状態の北海道において、多くの一般開拓民家庭では、学齢の子供といえども 貴重な労働力である実情に鑑み、学校の開校時期を 積雪期( 農閑期 )に合わせて、十一月 ~ 四月までの半年間とする。

 

3. 当面、北海道における 学校建設などの費用を省くため、開拓民家 一〇戸 から 一五戸を 一組とし、その内の 一戸の屋内で、授業を行わしめる事とする。

 

4. 当面、北海道における 教職員雇用などの費用を省くため、地域の 僧侶、戸長、郡役所の書記などを  臨時教員に任用すべき事とする。

 

 

○ 第七条 移住士民の状態

  北海道 移住士民の現状において、漁業に付いては 豊富な海産資源に恵まれ 比較的順調な 事業展開を見せており、敢えて喫緊の 政府の干渉、保護を必要としてはいないと考えるが、一方 農業では 二、三の 特別な事由を有する 成功例( 例えば、旧伊達藩旧臣の集団入植による、札幌県下 紋別村の場合や、旧徳川家旧臣の集団入植による 函館県下 遊楽部村( ゆうらっぷむら )の 大規模農場 開墾例など )を 除いては、政府の保護の有るにも拘らず、積雪期を含む 寒冷極まる 過酷な気候条件の下、荒地の開墾から始め 作物を得て生活を成し得るまでには 幾多の困難があり、入植後 七、八年を経過して 尚、草屋の土間に起居して 明日の生計に苦しむ者や、その困苦に堪えずして 家族離散の憂き目を見る者らが有りで、これらの 無残な惨状を呈する事例の 数多く存する状況は、偏に 未だ 社会基盤、産業基盤の著しく未整備な北海道に対して、拓地植民の為に 官誘移住を奨励して 募った結果であり、喫緊に 開拓行政の改革が求められる所以である。

 然るに、このまま 農業政策に 喫緊の対策が立てられない状況が続けば、開拓事業に重大な停滞を来たすのみならず、現今の 困窮開拓士民においては、飢餓状態の発生すら危惧される状況にある。

 この様な 状況下においては、先ず 政府による内地よりの 官誘移住政策を一時停止して、社会基盤の整備、特に 道内道路網の整備、開墾適地の密林伐採、農業水利の整備、開墾地の地味の精査、移住民の為の 移住地、開墾地の画定作業 などの諸施策を 迅速に実施して、それらの ある程度の整備の成った後に、官誘移住の再開を図るべきである。

 

 金子は、この文末において

 「 北海道各地の 開拓集落を巡回し、その家に入り、その人に問い、その惨状を親しく見聞し、その悲嘆の情を、未だ 胸裏より消散する事 能はず、故に この一文を起草して 上呈す。 」

と記している。

 

 

 4.巡視報告 提出


  金子は その鋭い洞察眼と 行動力で、七十日間に及ぶ 北海道巡視を行い この〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開拓建議七箇条 〕をまとめ上げ、太政官と 命令権者である 参議 伊藤博文に提出している。

 そして、この 復命書 及び 付属の 開拓建議は、提出された 太政官 及び 内閣( この 二カ月後に太政官制が廃止されて 内閣総理大臣を首班とする 内閣制に移行するが、この時点では まだ 大臣 及び 各省長官( 卿 )が兼務する 参議による合議体としての内閣であった )において 高く評価され、この後 長く 北海道における 開拓憲法ともなされて、北海道開拓事業に対する 根本指針との位置づけが、与えられる事となる。

 

 金子は 帰京後、伊藤の下に出頭して、この 復命書 及び 付属の 開拓建議を提出しているが、伊藤も この復命書に付いて、その内容を 大いに諒として これに承認を与え、さらに この復命書を、国策としての 北海道開拓における 基本政策とするため、事は重大に付き これに付いて 山縣内務卿( 参議・山縣有朋 )、及び 井上外務卿( 参議・井上 馨 )の 意見を求める様 指示している。     

 これを受けて、金子は 山縣、井上両参議に 復命書を提出するが、山縣は「 自分は これ迄 こうまでに 北海道の内部を精査して 報告したものをみた事が無い、私は 君の説に賛成する 」と述べ 井上は「 いろいろ、北海道の開拓意見も聴いたが、これだけ 詳細なものは聴いた事が無い、至極賛成だ 」と 述べたと有る。

 この報告を受けた 伊藤は、元 北海道開拓使 長官で、長年 北海道開拓に尽力し、この時 すでに内閣を去って 熱海に湯治療養をしていた 黒田清隆の 意見をも求める様 金子に指示している。

 金子は、黒田の下にも 復命書を提出するが、金子は この時、長年 北海道開拓に苦労して来た 黒田の業績を 否定するが如き 一介の書記官( 金子 )の復命書に付き、否定され 叱責を受ける事を危惧していた様であるが、黒田は 伊藤宛に 熱海からの電報( 日本では すでに 明治六年 東京‐長崎間に 電信が開通していた )で「 復命書見た、調査精密、議論明晰、改革に聊かも異存なし 」と云って来たとある。      

 これによって、伊藤は 内閣における 意志統一を確認出来たとして、金子に対し 北海道三県一局の 廃止後に設立する 北海道殖民局( 実際の設立時に 名称は 北海道庁と成る )の 官制案作成と 長官人事に付いての 意見具申を指示する。

 金子は 予てから構想していた 北海道庁の官制と 初代長官に、当時 司法大輔を務めていた 岩村通俊を推して 伊藤に具申している。

 こうして、北海道開拓の行政改革は 大きく動き出す事になるが、この後 伊藤は 北海道庁 初代長官に内定した岩村に対し、金子が提出した 復命書 及び 開拓建議を示して「 これが 北海道庁が出来た 基であるから これをよく読んでやるべし 」と 訓示を与えた とある。  

 この時、金子は 太政官における 北海道庁担当書記官 兼務の辞令を受けている。

   

 

5. 金子の集治監視察


  本書の主題ともかかわる部分として、先にも少し触れた 明治十八年の 北海道巡視行において、当然に 視察を行っていたはずの 樺戸、空知の両集治監と、視察まで 行い得ていたかは 定かでないものの、状況に付いては報告その他を受けて、確実に把握していたはずの 釧路集治監に付いて、金子は 明治十八年の 巡視復命書 及び 開拓建議の 太政官 提出時も、のちの大正五年に この 復命書 及び 開拓建議を 復刻、上梓した時点、さらに のちの後、金子が 子爵、枢密顧問官に栄達を果たした 大正十四年時に、この 明治十八年の北海道巡視行を詳細に記述して 北海道庁開設四十年記念式典に寄せて寄稿した〔 北海道庁設置の沿革 〕でも これら 集治監 視察に関する記述が一切、抜け落ちている点に付いて触れたい。   

 

 明治十年代に 集治監制度が創設されて、そこに収容する囚徒を 労働力として 特に 北海道においては 開拓事業に使役すべき事が 国策とされていた時代から、二十年代に入って 極めて 悲惨な状況に有った 集治監囚徒の処遇問題について、本書の 序章で見た 清浦奎吾らの尽力によって 行刑制度の改革が行われ、明治三十二年 清浦司法相の下で 第三回監獄則改正が行われて、集治監囚徒の監外出役の廃止、日曜の就役廃止、教誨の強化充実等が成され、行刑の現場においても 厳刑主義 から 寛刑主義へと 大きく変わっていった時代にあって、流れは 欧米流の人道主義的な流れを汲む事で 日本社会も 自由民権運動から 国会開設、憲法の制定と 民権の拡張基調が社会の底流となり さらに 大正期に入って、時代は 所謂 大正デモクラシーを謳歌する中、一方で 金子は これまで 度々 見て来た様に 超の字が付く程の 合理主義と、年を重ねていっても 些かも変わる事の無い、秋霜烈日たる気概を持つ 人物像から、かの「 彼ら固より暴戻の悪徒なれば 」の一文に付いても、時代がさがって 否定的な 論調の跋扈する中、金子自身は 内心 肯んじ得ずしていたのではないかと思われる。

 こうして、大正十四年夏 金子は 北海道庁開設 四十周年記念式典に寄せて寄稿した〔 北海道庁設置の沿革 〕で、明治十八年の 北海道巡視行時における 集治監視察行に付いて、その記述を 意識して 除外する事で、時代への 無言の抗いとしたのではないかと筆者は考えている。

  

 

6.復命書と金子の評価


  ここまで、明治十八年七月から 十月までの 金子の 北海道視察行と、帰京後に太政官に提出された〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 開拓建議七箇条 〕の 詳細と、提出された後の太政官における 受理の状況などに付いて 具に眺めて来たが、この復命書 及び 開拓建議の 優れた内容が 云々される前に、金子の復命書と云えば イコール 「 彼ら固より暴戻の悪徒なれば 」とされ、ここから 金子と云えば イコール 血も涙も無い、冷酷無慈悲な 二流の人物 という評価が史上の一部に定着している。

 

 この辺の事に付いて、例えば、司馬遼太郎氏は その著書の 〔 街道をゆく・ 15  北海道の諸道 〕に、〔 北海道開拓建議七箇条の 第二条 道路開鑿の議 〕の文章に付いて、次の様に書いている。

 

『 この文章は、要するに、「 彼等は悪いやつらだからたとえ斃死しても可哀そうでは無い。むしろ死んだ方が、監獄予算が軽くなってたすかる。」

  ということで、江戸期の安永年間( 1772年 ~ 81年 )に、江戸でごろごろしている無宿の遊民を佐渡へやろうとした幕府官僚よりもはるかに徹底していて、幕府官僚もこれほどに血も涙も無い文章は書けなかったに違いない。

金子の文章は、今にも予算面でつぶれそうな、新興国家の中核にあって危機意識がばねになっていたとはいえ、凄味がある。 』

 

さらに、司馬氏は

 

『 「囚人の賃金は安い 」と、金子の論述は、下世話になって行く。 金子は「 北海道での一般人夫の日当は最低でも四十銭だが、囚人は規定の十八銭でいい 」という意味の事を言っている。 

 近代国家というのは前時代とは異なり、理念の上に成立しているものだが、これでは江戸期の田舎妓楼の経営者の感覚で人民と国家をとらえているとしか思えない。』

 

 と、その指摘は 手厳しい。

 確かに、この一文のみによれば、近代国家としての一国の政権中枢にあり、国家の政策立案に関与する人物の一人としての 金子の言としては、その視点、論点に「 仁 」の一字が欠けているとしか思われないのであるが、ただ 同時に金子は、同じく〔 北海道開拓建議七箇条 〕の 第七条 移住士民の議の末尾で、未だ社会基盤の著しく未整備な北海道に入植し、幾多の困難にあえぎながら開拓に従事する、移住士民に対する深い同情の言葉として、

 「 北海道各地の 開拓集落を巡回し、その家に入り、その人に問い、その惨状を親しく見聞し、その悲嘆の情を、未だ 胸裏より消散する事 能はず、故に この一文を起草して 上呈す 」と述べている。

 

 そして、本第四章で詳らかにした如く、金子の復命書の主意は、当時の北海道の開拓状況に付いての、正確な現状認識に基づく 改革に関する提言として、開拓関連の法整備、税制改革、国境警備、教育 及び 農林漁業、工業に関する総論と、炭鉱、鉄道、製材、紡績、製糖、製粉、製網、麦酒・葡萄酒製造・缶詰製造などに関する 各論を詳細に展開する事で、北海道開拓事業の極めて 広範 且つ、多岐にわたる その方向性に 指針を与える事にあった事は明白であり、ただ 「 彼ら固より暴戻の悪徒なれば 」の一文のみによって、この 復命書と 金子自身の評価を定めるならば、皮相の誹りを受けるかもしれないと 筆者は考える。

  

 

7.法学教育


  この頃、北海道巡視行を終えたのち、官僚 金子も多忙を極めるが、日本国の政治・権力機構の変遷もめまぐるしい。

この年、明治十八年十二月 太政官制が廃されて、新たに内閣制度が創設されている。

 初代内閣総理大臣に伊藤博文が補され、ほかに外務大臣  井上馨、内務大臣 山縣有朋、大蔵大臣 松方正義、司法大臣 山田顕義等がそれぞれ任じられている。

 

明治期における日本の法曹界は、新生明治国家の国家的課題ともいえる、安政の不平等条約改正への必要からと、国是とする富国強兵、殖産興業を実現する手段としての近代的な法治国家を目指す為に、司法省のもとで欧米の近代法制を取り入れる事での近代法の整備を急ぐとともに、次代の法曹人育成のための教育環境整備にも注力されていた時代であった。

明治一三年七月、既述の仏人 ボアソナード博士のもとで清浦圭吾らによって、日本初の近代法典としての 刑法、及び

治罪法( 刑事訴訟法 )が制定、公布され、翌々年の明治十五年一月一日に施行されている。

 また、同時に民法、民事訴訟法、商法などの制定のため調査・研究が、鋭意おこなわれていた時期でもあった

 

 こうしたなか、法曹教育の環境整備も進められており、官学の東京大学法学部( 東京大学は旧幕時代の昌平坂学問所などの流れをくみ、曲折を経て明治十年に東京大学として創立され、明治十九年 帝国大学令によって当時は、我が国唯一の帝国大学となり、同三十年に京都帝国大学の創設によって、二帝国大学と成った為、東京帝国大学と改称されている )に対して、より特色ある法学教育を行うべく、私学の創設も順次進められていた。

 明治十三年四月、ボアソナード博士の薫陶を受けた金丸 鉄(まがね)、薩埵正邦らによってフランス系法学を教授すべく東京法学社が設立されており、同校は後 和仏法律学校を経て、法政大学として今日に至っている。

 翌、明治十四年一月には、同じくフランス系法学教授を目的とした明治法律学校が設立され、明治大学として現在に至っている。

 また、イギリス系の法学を教授すべく明治十三年九月、専修学校が設立されて 現在の専修大学、明治十八年七月には英吉利法律学校(イギリス法律学校)が設立され、中央大学としてそれぞれ現在に至っている。

 

 こうしたなか、フランス系やイギリス系といった欧米系の近代法体系に基づいた教育のみならず、日本の独自の歴史、文化に根差し、且つ 日本古来の法体系に基づいて、なお 現在の日本の現実に即した、日本法学の研究、教育を目指す法学教育も必要、という考え方が当時の司法大臣 山田顕義より提じられている。

 この当時、山田は司法大輔(司法省の上級次官)、内務卿、司法卿を歴任しながら、明治十八年の内閣制度創設に伴い、伊藤博文内閣の司法大臣に補されており、明治十三年の刑法、治罪法の公布、施行に続く民法、民事訴訟法、商法の制定、調査に深く関わる傍ら、日本の歴史、文化、風俗、習慣などに根差した日本独自の近代法体系を確立し、それらを担うべき人材育成のための法曹教育・研究機関設立が喫緊の課題と考えていた。

 

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山田顕義

 

 

山田顕義という人物について。

 

 山田は、天保十五年( 1844年 )、長州 萩に、高百石の長州藩士、山田七兵衛顕行の長男として生まれている。

 幼名を市之允。

 近親に、幕末長州藩の藩政改革を成し遂げ、明治維新の原動力となった幕末雄藩、長州藩の礎を築いた村田清風がいる。

 安政四年( 1857年 )、十三歳で吉田松陰の松下村塾に入塾し、翌々年の松陰の刑死後は、高杉晋作らの攘夷グループに属しながら、藩命で上京し藩主警護の任に就いたりし、堺町御門の変後のいわゆる七卿落ち時には三条実美らの警護に同行して帰国している。

 その後、山田は大村益次郎の晋門寺塾で学んだ後、禁門の変や、幕府による第一次長州征伐下の下関戦争、第二次長州征伐時の周防大島沖海戦から、慶応四年一月に始まった戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いを皮切りに、北越戦争、函館戦争と転戦し、長州藩が関わった幕末のほとんどの戦闘に現場の指揮官として参戦しているが、山田は、これらの戦闘に於いて卓越した戦闘指揮を行っており、西郷隆盛らから用兵の天才と評されている。

 こうした幕末の戦歴を経て 山田は維新後、明治天皇に謁見してその功を称され、陸軍少将に補されている。

 さらに、新官制の太政官制においては、兵部省の兵部大丞(局長クラス)に任じられ、徴兵制を基幹とした明治陸軍の創設に尽力している。

 余談をひとつ。

 陸軍少将という地位は、英語ではジェネラル、日本では閣下とも呼ばれる地位であるが、山田は、残されている写真からも窺える様に、外見が小柄で童顔であったようで、視察に出かけた欧州において、彼の地の要人に紹介された折、「貴国には子供の将官がおられるのか」と驚かれた という話が伝わっている。

 

 そして、その後の山田の特異な点は、こうして幕末の動乱期に、数々の戦闘の場を潜り抜け、すぐれた戦術家として実績を残し、維新後の早い時期には、大村益次郎の遺業ともいえる日本陸軍の創設に尽力しながら、明治七年に司法大輔に任じられてからは、近代法治国家を目指す日本の近代法整備に深く関わる事となり、遂にはこの軍事を知り尽した天才的な軍事戦術家が「 兵は凶器なり 」、「 法律は軍事に優先する 」という様な言葉を残している点である。

 驚くべき事に、山田は謂わば 明治陸軍の創成期にすでに軍隊における文民統制 即ち シビリアンコントロールの概念を考えていたと思えるのであるが、山田のこの様な考えには、一時期 故郷 長州の晋門寺塾で学んだ、師の大村益次郎の影響があったのかもしれない。

 

 山田の考えていた日本法学に付いては、先述した如く欧米法の先進性と歴史的背景に基づいた優れた法的概念を取り入れながらも、日本は古代から中世、近世を通じて、独自の法概念に基づく具体的な法として、例えば聖徳太子の十七条憲法から、天平、平安期の大宝律令・養老律令、鎌倉期の御成敗式目(貞永式目)、後醍醐朝における建武式目や、さらに戦国期における各地の分国法と江戸期の武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などなどがあり、それらによる長い法治の歴史を有しており、加えて日本固有の歴史、精神、文化、風俗、習慣などと、江戸中期の契沖、荷田春満らから、賀茂真淵、平田篤胤、本居宣長らによる和学、国学による思想的背景、特に藤田東湖らの後期水戸学に於ける日本独自の国体の概念を加味した、謂わば一種壮大な法概念に基づく日本法学を考えていた様である。

 

 山田は、このように考えていた日本法学による法曹教育を行うための具体的な動きとして、明治二十二年一月 司法大臣の兼任としながら、日本における国家神道の宗教行政機関として設立されていた皇典講究所 所長に就き、同所内に同年十月に設立認可された日本法律学校の創立を主導している。

 この日本法律学校が、後に日本大学法学部となる。

 この日本法律学校の設立経緯については、その職務に多忙を極める現職司法大臣の山田に代わって、創立総務代表に宮崎道三郎、創立実務主幹に樋山資之、長森藤吉郎らが関わっているが、この時の山田の強い求めで初代校長に金子堅太郎が推されており、総理大臣山縣有朋等の支持も得て日本法律学校初代校長に金子が決定している。

 翌、明治二十三年六月の金子の校長就任後、同年九月に日本法律学校の開校式が行われ、ここに金子は日本法律学校の初代校長として創立趣意演説を行い、山田が開校の式辞を述べ、この時特に出席を見た山縣総理による祝辞演説が行われている。

 

 山田の金子校長推戴に至った経緯については、山田と金子の関係について識る必要があるが、出会いは明治四年の岩倉全権欧米使節団に始まる。

 山田は二十六歳の陸軍少将で兵部省理事官として、金子は十九歳で既述の如く私費留学の黒田侯の随員として参加していたが、この時の使節団一行が乗船したアメリカ号に同乗していた時が初めての対面と思われる。

 この時は金子の側から見ると、山田は岩倉全権に随行する高官の一人として、山田の側からの金子は多数の同乗者の一人としての認識しかなかったと思われる。

 この後は明治十一年、金子がアメリカ・ハーバード留学からの帰国後、紹介者を得て司法省への仕官を求め、司法卿 大木喬任、司法大輔 山田顕義を訪ねているが、この時の仕官は不首尾に終わっており、山田、金子の会見の内容も詳らかでないが、挨拶程度で終わったものと思われる。

 その後、明治十三年金子は立法府である元老院に職を得るが、この頃 時の元老院副議長 佐々木高行の命を受けて、当時 自由・民権論者の間で 頻りに持て囃されていた、仏人 ジャン・ジャック・ルソーの〔 民約論 〕に対抗して、保守・漸進の立場から 学説を論ずる、英人 エドモンド・バーグの著作二書の要意をまとめ上げ、佐々木に提出している。

 佐々木はこれを歓び、当時 内務卿の山田にこれを示すと、山田も一読してこれを諒とし、この後山田は度々自身の別荘に金子を招いて熱心に金子の意とするところを聞いているが、遂には金子にこの出版を勧めて、明治十四年十一月 元老院より上梓されている。

 これが有名な金子の畢生の著作となる〔 政治論略 〕である。

 翌十二月 内務卿 山田は、これまでの金子の学識、識見を高く評価しており、金子に対して内務省取調局長就任を打診するが、この時金子は向後の元老院での憲法調査の仕事を考え、元老院副議長 佐野常民の説諭を容れてこれを謝辞し、元老院 残留を決めている。

 

 山田の観る、金子の教育者としての資質、識見、また経歴としては、金子が郷里 福岡の修猷館で学んでいた当時、時勢から修猷館ではそれまでの漢学一辺倒を改め、古事記、日本書紀などの和学の講義を始めていたが、金子はこの時 平田篤胤、本居宣長らの和学に接して真の日本の歴史と、藤田東湖らの後期水戸学などから国体の尊厳について学び、感銘を受けたと語っている事、また 明治十一年十一月より明治十三年まで東京大学予備門教員を勤めている事、明治十五年十月から特に請われて英国留学を控えた近衛家の若き十九歳の当主 篤麿に英語の個人教授を行っている事、明治十七年二月より東京師範学校教授の辞令を受け、地方制度に関する組織、権限、法令等を論じる行政法概論の講義を行っている事、等々明治十三年以降は元老院書記官として超多忙な日常を送るなかでも、こうした教育者としての活動を恙なくこなしている点でもあった。

 

 こうした一連の経緯を経て、山田は山田の考える日本法学の法曹教育を行う日本法律学校を託すべきは金子をこそ適任 との思いを強くし、日本法律学校 初代校長 金子堅太郎が実現したものであった。

 


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新釈 金子堅太郎伝 秋霜烈日の人      完

2023年8月

Yoshinao Sato

( wwasanewscom@gmail.com  )

 


 写真の素材を提供いただきました ぱくたそさん ありがとうございました。