秋霜烈日の人 5.
第三章 明治十一年 帰国
1. ハーバード卒業、帰国
ハーバード大学を卒業して 学位を授与された夜、金子は 下宿で 西方を遥拝し 瞑目して、黒田の老公に 鴻恩( こうおん )を謝している。
この後 金子は 帰国への準備に 忙しい日々を送る。
先ずは 六年間の留学中に 世話になった人々や 友人を訪ねて 交誼を謝して廻った後、ボストンでの 社交中に 度々耳にしていた 米国の 有名な避暑地、ニューポートと サラトガの 観光を思い立って 独り 出かけている。
ニューポートでは さほど 印象に残る事も無かった様だが、サラトガでは その 避暑地としての 規模の 大きさに驚くと共に、公認のカジノに 入場料を払って入場して見て、その喧騒と 老若男女が 金貨、銀貨を 投じて 勝負を争い、勝っては 祝杯をあげて騒ぎ、負けては 悲嘆にくれる様を見て、金子は 実に キリスト教の道徳を主唱する米国に この様な魔窟( 金子談 )がある事に 目を丸くして 訝しんでいる。
金子は この年 マサチューセッツ工科大学を卒業した 団 琢磨と共に 帰国する事としており、ボストンで落合った後、二人で モントリオールから ナイアガラの滝を見物したり、シカゴや ミルウォーキーを経て 途中 二人共 発熱して、ホテルで寝込んだりしながらも、大陸横断の列車の旅をして サンフランシスコに着いている。
サンフランシスコでは 同地在住の ハーバードの同窓生らと歓談した後、便船 シティ オブ ペキン号 に乗船して 帰国の途に就く。
乗船した便船には、一時帰国する 駐サンフランシスコ領事の 柳谷謙太郎が 乗船しており、留学を終えて帰国する 金子らに、帰国後 官途に就く時の 心得などに付いて語っている。
また、この便船の一等船客に 米国のキリスト教伝道協会から派遣されて 日本、及び 中国に布教に赴く 牧師と その家族等 多数が乗っており、金子は 彼らと 長い船旅の途次 何度か懇談する機会を持つが、その学識の低劣さに驚き、彼らは 伝道協会から 支給される年俸で 日本、中国で 生活する以外、おそらく 本国では 職の途は無かろう と酷評している。
さらに また、日本の文部省により 東京帝国大学の教員に採用されて赴任する、米人 メンデルホールや、英人 ターリングらが 家族と共に乗り合わせており、金子は 彼らとも 何度か懇談の機会を持っているが、米人 メンデルホールについては、日本へ帰国して後 東京大学の教員となる 団 琢磨と、同僚として勤務し、宿舎も 後に 団が 金子の妹 芳子と結婚して 住む事となる 東京大学の 雇外国人教師館となる等で、この後 長い付き合いと成っている。
英人 ターリングに付いては、東京大学において 国際法の教授を行うという事で、毎日 船中で 国際法の 初歩を勉強している様子に、金子は 官費を持って この様な低級な 国際法学者を招聘する文部省の意図する処は何なのか と 怪しんでいる。
九月二十一日、乗船 シティ オブ ペキン号は 無事 横浜港に接岸。
帰国の当日は、この時すでに 新橋 ― 横浜間に 鉄道が開通しており、金子は 団と二人で 汽車で 横浜から新橋に着き、上野 池之端の団の養家、団 尚静邸に赴き 団の養父母、家族と歓談して、翌日 赤坂溜池の 黒田邸を訪ね、老公 長溥公に拝謁して 長年の留学支援を謝し、帰国の報告を行っているが、老公も 当初の目的通り 金子のハーバード大学 学位と、団のマサチュ-セッツ工科大学 学位取得に、大いに満足せられ 酒肴を賜っている。
この後 金子は、何はともあれ 米国留学の恩人 平賀義質を 番町の屋敷に訪ねるが、平賀は 在宅にも拘らず、差し支えあって 面会致し難し と、面会を拒絶される。
不得要領のまま 悄然と平賀邸を辞した金子は、翌日 この当時 黒田家の 家政参与的な役割を担っていた 松下直美を訪ねて 顛末を話し、ことの事情を尋ねている。
松下は 理由を明かさぬまでも、平賀は 黒田の老公に 大恩有るにも拘らず、現在 老公と不仲となって 黒田家へ出入りをしておらず、また 黒田家の他の不祥事について、先年 金子らの先輩に当たる 早川 勇が 司法省に奏任官として奉職し、当時の 福岡藩の出身者としては 最も高位の中央官人として、黒田家の家政参与を兼ねていたが、家職の 太田素郎、吉田清作と共謀して 黒田家の財政に不正な処理をしていた事が発覚し、早川は 免職の上、現在 獄中にあり、太田、吉田も 懲役刑に処せられ、現在に至る旨 話している。
また これらの事があって、黒田家当主の 長知は隠居して 福岡の別邸に移り、長知の長子 長成が幼くして 家督を相続して、老公 長溥が 後見人となり、家政を親裁している との事であった。
こうした事に 金子は 福岡藩は五十二万石の大藩にも拘らず、先年の 乙丑の獄 から始まり、太政官札鴈札事件に至る 幕末の混乱期に 有為の人材を悉く失い、枯渇して ここに至っており、老公を輔けて 黒田家の 家政を見るべき者が 皆無の状態を 嘆いている。
2.求職活動
この後、十月九日、金子は 団と共に 福岡に帰省する。
金子は 懐かしの我が家で、母と 二人の弟、それに 成長した妹と 水入らずの時を過ごし、旧友らとの 楽しい語らいの日を過すが、それにつけても 故郷 福岡の変わり様と、廃藩置県後の 武家の没落のさまに 心を痛めるが、さらには 先の 西南の役で 西郷軍に投じて 罰を受け 東京や宮城の監獄に繋がれている者や、戦死したり、刑死したりした旧友の若後家が、黒髪を切って 幼児の手を引き 墓参するさまに 内心 涙している。
こうした一日、金子家の氏神の 鳥飼八幡宮に参拝した後、太宰府天満宮に参詣し、その後 団と共に 黒田家の 福岡別邸を訪ね、黒田長知に 帰朝報告をして 午餐を賜っている。
また 先年の東京留学時、福岡県庁からの 帰国命令に抗して 東京在留を決めた時に世話になった 一族の 平山能忍が、この当時 東京での職を辞して 福岡に帰っているのを訪ね、東京での 恩誼を謝すが、この時 平山は 先の黒田家家政にまつわる 不祥事の詳細と、今ひとつ 金子に関わる件として、金子が 米国留学中に 平賀がある人の讒言( ざんげん )を入れ、老公に対して 金子への留学費を絶つべし と 進言したのを、平山が 強硬に反対して 継続された経緯などを 語っている。
金子としては、先の 東京での平賀邸を訪ねた折の、平賀の不得要領な態度への疑問は氷解したものの、重ねて 平山の厚誼を謝すと共に、黒田家の前途を思って 暗澹としたと語っている。
その後、金子は 福岡県令の 渡辺 清の招きに応じて、団と共に その官邸を訪ね、米国の状況などを話した後、渡辺より 司法卿 大木喬任( おおき たかとう ) 及び 司法大輔( しほうだいふ :司法省上級次官 ) 山田顕義( やまだ あきよし )あて 仕官願いの 添え状をいただき、別に 団は 渡辺より、福岡県内における 炭山の状況調査の依頼を受けている。
こうして 金子は 県内炭山調査に赴く 団を 福岡に残して、帰京の途に就く。
帰京後、金子は 老公への挨拶を済ました後、 松下直美宅に 一時寄宿しながら、一日 司法省に 大木司法卿、山田司法大輔を訪ね、福岡県令の 渡辺 清の添え状を呈して、仕官の希望を述べている。
翌日、司法省 大書記官 渡辺 驥より 来状が有り、再度 司法省に出頭した金子は、渡辺大書記官より 大木卿、山田大輔の命により、貴君を 司法省に採用し、判任官 御用掛 月報二十五圓に処す旨を伝えられる。
当時、明治一〇年の 改定 太政官制 職官表では
勅任官
一等職 : 大臣、参議、卿( 各省長官 )
二等職 : 大輔( 各省上級次官 )、
三等職 : 少輔( 各省次官 )
奏任官
四等職 : 大書記官
五等職 : 権大書記官
六等職 : 少書記官、
七等職 : 権 少書記官
判任官
八等職 ~ 一七等職
となっており、この時の 判任官 御用掛 月報二十五圓は、現場の下級管理職で 係長クラスかと思われる。
これに対して 金子は、米国 ハーバード大学を 卒業して バチュラー( 学位 )を持つに付、奏任官採用で交渉するが、埒が明かず 一時 司法省への仕官を諦め、別に 声の掛っていた 東京大学予備門 教員の職に就く事とし、老公に会って その了を得、十一月十九日 文部省より 東京大学 予備門 教員 月俸八十圓の 辞令を受け取り、勤務を始めるが、この頃 東京大学 予備門 教員の 同僚に 高橋是清等がいた。
また、この頃 金子は 当時 民間の有志が集い、盛んに 時事問題などの 研究、討論の場としていた 「 共存同衆 」に入会して 各界の 若手人士と交流している。
明けて 明治十二年、金子は 東京大学 予備門教員として勤務しながら、寄宿先の黒田家邸内の 松下宅から、赤坂 表町に貸家を借りて転居し、福岡より 母と二弟一妹を呼び寄せるが、いかにも手狭につき、同じ赤坂の丹後町に 別の貸家を借りて 再び転居している。
この頃、金子は 黒田の老公邸で 福沢諭吉に会っている。
当時、黒田家の当主 長成( この時 十三歳 )が 福沢の慶応義塾に学んでおり、福沢は 時折 長成の学業報告などで、黒田家の老公 長溥を 訪ねていた様である。
福沢は 金子の素性を聞いた上で、当時の 日本の知識人 一般に 多く受け入れられていた、英人 ハーバート・スペンサーの 教育論を読んで、その説に 大いに感服し、今後 慶応義塾の教育方針に取り入れていく考えを 述べている。
金子は この前年、共存同衆に入会していたが この年 さらに「 嚶鳴社 」に入会している。
「 嚶鳴社 」は 太政官、元老院等の 若手 少壮官僚らが集まって、時事問題等を 自由に討論し それを 一般の公衆に傍聴を許すとしたもので、例えば “自由貿易と保護関税徴収の可否 ”を テーマとして 闊達な議論が成され、ある日の演説、討論会場には 元老院議長の 有栖川宮熾仁親王が 微行姿で、副議長の 河野敏鎌( こうの とがま )と共に 傍聴に来ていた とある。
また この頃、金子は 一日 外務大輔を務める 森 有礼を、永田町の私邸に訪ねている。
森邸で 金子は、眼光の鋭い一人の西洋人を紹介されるが、これが 有名な英国公使 パークスであった。
公使 パークスは、金子の流暢な英語に驚き 経歴を尋ねるが、ハーバード留学を話して納得し、以後 公使館にも 訪ねて来る様にと話している。
五月に入って 太政官より「 共存同衆 」及び 「 嚶鳴社 」の公開演説会などに、官吏の出席が 禁止されてしまい、盛況を誇った これらの会合も 徐々に 衰微していった。
この頃、「 共存同衆 」及び 「 嚶鳴社 」の同人で、昵懇の 馬場辰猪( ばば たつい )より 三菱の 岩崎弥太郎より、三菱の相談役として迎えたい旨の話を聞く。
これは、平時は何らの職務も無く、三菱側の必要時に その相談に応じれば良い と云うもので、月謝 百圓を給する という事であったが、金子は 岩崎の好意を謝しつつ、将来 国家の為に働く大志を持つに付き、と 謝辞している。
また 同じく 馬場より、岩崎の岳父は 前参議 後藤象二郎で、その 岩崎の次女は、未婚に付き 金子に娶る事を薦めるが、金子は 権門、富豪の閨に入るを欲せず として、これも謝辞している。
この後、金子は「 嚶鳴社 」で 世話人を務めていた、元老院大書記官 河津祐之、権大書記官 沼間守一の 紹介で、元老院 副議長の 河野敏鎌と 幹事の 柳原前光( やなぎわら さきみつ )に会い、求められて 政治問題への意見を述べている。
3. 元老院に仕官
翌 明治十三年、金子は二十八歳となる。
一月の末に、東京大学 予備門 教員を勤める 金子の下に、東京大学 学務綜理( 事務方責任者 )の加藤弘之から、元老院より 金子の採用可否について 問い合わせが有ったが、後任の当て無きに付き 不可の回答をする旨 通告が有った。
これに対して 金子は、自分は本来 官吏志願に付き、現在の 予備門 教員に採用される時に、将来 官吏に登用される機会が有れば、予備門 教員を辞する旨 予め 申し越しを行っており、今回の 元老院 採用の機会については、予備門 教員を辞して 応じる考えである旨、加藤に伝える。
曲折の後、一週間の猶予を経て 金子は 東京大学 予備門を辞し、元老院 御雇 月俸百圓 調査第二課勤務を命ず、の 辞令を受け取る。
この時の 経緯に付いて、金子は「 嚶鳴社 」で 親交のあった、元老院の 河津、沼間が 副議長の河野、幹事の柳原に 推挙してくれたものかと 推測している。
金子が 元老院に奉職して 約一月後の二月二十八日、政府は官制の大改革を行い、元老院においても 議長の 有栖川宮熾仁親王が職を辞して、参議 大木喬任( おおき たかとう )が 議長兼任となり、副議長 河野敏鎌は 文部卿に、幹事 柳原前光は 駐露公使に転出となり、大書記官 河津祐之は 司法省 検事に、権大書記官 沼間守一は 退職となり、わずか一月前に 金子の元老院奉職に尽力してくれた人々が、悉く 元老院を去る事となっている。
この間、金子は 調査二課において、この当時 全国の有志から 国会開設 並びに 条約改正に関する建白、請願が 盛んに 太政官、元老院に 提出されているに付き、これら 建白と請願の差別、受領すべき官庁、受領の手続きなどを定める事 などを手際よく処理して 手腕を発揮している。
そして、金子は 四月二十一日、極めて短期間で 元老院 権少書記官 昇任の辞令を受け取る。
元老院 権少書記官は、明治十年一月の 改定 太政官制によると、奏任官 七等職 月俸百圓とある。
この日、金子は 退庁後、黒田邸に至り 老公 長溥に拝謁して 任官の報告をしているが、この当時 旧福岡藩の出身者で 奏任官は 金子ただ一人だけで、老公にも 大変に喜ばれている。
また こうした事から金子は、老公より 向後 黒田家の家政についても 諮問に与る事となる。
この後、金子は 一日 老公の招きで黒田邸を訪ね 老公より内密で、福沢諭吉より 黒田家に提出された書類を見せられ、意見を求められる。
内容は、黒田家より 福沢に対して 五萬圓( 現価で 約二億円程 )を交付し、福沢は 洋学者の学資援助や、研究、翻訳、著述に関する支援などの 育英事業を行う と有った。
金子は これに対して、今 黒田家として 育英事業に着手するとすれば、先ずは 旧筑前の 福岡県人を対象とした事業とすべきで、これらの事業を 福沢 一任とした場合は、筑前に 縁もゆかりも無い人々への事業となり、将来 福岡県 及び 黒田家の為に 尽力する人より、福沢の 慶応義塾の為に 尽力する 人材の育成と成るに付き、この話は お断りあるべし と答えている。
老公も 金子の意見に 大いに同意し、以後 この件は 沙汰止みと成っているが、これまで 黒田家の当主 長成が 慶応義塾に学んでいる事から、度々 長成の 成績報告などで 黒田家を訪れていた 福沢が、この後 黒田家に まったく出入りしなくなっている。
これらの事で 金子は 益々 老公の信任を得る事と成り、この後 当主 長成の 教育方針についても諮問を受けている。
この時、長成は 十四歳で 三田の福沢邸に 書生、小使いと共に寄宿し、慶応義塾に学んでいた。
金子は 長成の教育方針に、緻密で 長期に亘る計画を立てて 老公の諮問に応えている。
この中で 金子は、長成を大藩の華族の当主として、将来 英国へ留学させる事が望ましく、彼の地の 貴族の学ぶ大学で 一専門学を修め、且つ 英国貴族の子弟との交誼の中から 人格の修養までを図る事とし、先ずは 留学準備のため 慶応義塾を退学して、東京大学 予備門へ入学する事とし、その為に 黒田邸内の一画に 勤学所を設け、長成は 早急に 福沢邸より ここへ移る事とする。
慶応義塾については、レベルが 普通中学程度で、専門の学科を教育する事無く、特に 英語が日本人教師の教える 変則 英語の為、英国留学後に かえって 支障になる可能性が高い事を挙げている。
また、新たに設ける 勤学所には 謹厳なる学監を置いて 修学の実を挙げる為、一切 女中を置かず 長成の 身の回りの世話も すべて 男子の職員をもって成し、老公 及び ご両親への面会も 月 二回までとし、ご親族の 宴会、訪問なども 一切 お断りすべし と 細部に亘っている。
これに対して 老公は、金子に 全幅の信頼を置き すべて 金子の提案を受け入れ、向後 長成の教育については、すべて 金子に託す旨を述べて 金子を 感動させている。
十月に入って 金子は、元老院の同僚 豊原基臣の紹介で、同じ 麹町区内 中六番丁に 初めて 家屋を購入する。
家屋は 坪数 三百五十坪、古家 瓦屋根の母屋に 離れ屋を併せて七部屋と 台所、風呂場付で 代価 七百圓であったが、金子は 毎月の月給を倹約し、また 官庁の諸規則を 英訳するアルバイトで得た金員を これに充てていた。
さらに この年 金子の身辺は 慌ただしい。
十一月に入って 金子は、青森県令 山田秀典の次女 弥寿子と結婚する。
山田弥寿子は この年 十五歳。
さすがに 十月に家を買い、十一月に結婚する事になった金子は、金子らしからず 金銭に窮しているが、山田家とも 相談の上 極力 質素な挙式として、尚 不足金を 高利の金貸しからの 借用金で賄っている。
この時、初めて 高利貸しという人種と接触を持った 金子は、その横柄な態度と 粗暴な物言いに驚き、二度と この様な金を借りるまじと 決意している。
4. 「 政治論略 」
この年も暮れになって、金子は 元老院 副議長 佐々木高行より、この頃 自由・民権論者の間で 頻りに持て囃されている、仏人 ジャン・ジャック・ルソーの〔 民約論 〕に対して、保守・漸進の立場から 学説を論ずる、良書の有無に付いて 諮問を受ける。
金子は、早速 米国留学中に愛読していた、ルソーの〔 民約論 〕に 反駁し 攻撃した、英人 エドモンド・バーグの〔 フランス革命の省察 〕( 金子の著書では〔 仏国革命反響論 〕 )及び〔 新ウィッグから旧ウィッグへ 〕( 金子の著書では〔 新旧の改進党に訴う 〕 )の二書を挙げた処、 副議長 佐々木は 大いに喜び この二書の要意をまとめて、一書を 提出すべしと 命ずる。
ここに、金子は 有名な〔 政治論略 〕を 書き上げて 元老院に提出している。
この当時、この〔 政治論略 〕は 元老院を経て、宮内省 侍講 元田永孚( もとだ ながさね )より 明治天皇の叡覧( えいらん )に供されていた事が、のちの後 昭和に下ってから 金子自身が 大命を拝して 編纂にあたった〔 明治天皇記 〕の 資料調査中、皇居 豊明殿御物の資料から 明らかと成り、金子を 感激させている。
明けて 明治十四年 金子は二十九歳。
この頃、相変わらず巷間では 自由・民権論で 喧(かまびす )しい中、太政官内においても急進的な論客有り、保守派の論陣を張るもの有りで、互いに 争論を交わす状況にある中、特に 自由・民権論での 思想的な論拠としての ルソーの〔 民約論 〕に対して、バーグの 保守学説にもとずく 金子の〔 政治論略 〕が 保守・漸進派の 論拠的な位置を 占めつつあった。
さらに、この後 自由・民権論者の中で 急進的な論陣を張って 過激化する者が現れ、この年の 秋田事件から、翌年の 福島事件をはじめ、数々の 暴動事件を引き起こす事と成り、これら 自由・民権論に対抗する論拠として 金子の〔 政治論略 〕が、元老院から 官許出版された事と相俟って 保守思想として、急速に体制側に浸透して行き その 著者 金子の名前も 世上に知られる事になる。
そして 三月二十一日、金子は 元老院 少書記官 昇任の辞令を受ける。
元老院 少書記官は 奏任官 六等職 月俸 百五十圓。
七月、金子は 元老院での職位上昇に伴い、増加する 来客への対応などの為 邸宅の増改築を行う事とし、詳細を決めて見積もりを取ると 八百圓が必要となるが、費用の出所が無く 黒田の老公に相談すると 老公 曰く。
金子も 奏任官となって 邸宅の一軒も 必要かと考えていた処に付き、その費用は 黒田家から 支給すべし、と 即座に家令に命じてくれている。
この年 十月十二日、これより十年後の 明治二十三年に 国会開設と 欽定憲法を制定すべく、明治天皇の詔勅、即ち 世に云う 国会開設の詔が発せられる。
この時 近侍の者が、天皇に 時期に付いて伺うに当り、天皇は 五、とか 十、とか 百 とかいう 区切りの良い数字を好むに付き、二十三年 と云う年を意外に思った と云う話が伝っているが、明治二十三年は、皇紀( 神武紀 )二千五百五十年にあたっている。
この年、政府は 官制の大幅な改革を行い、太政官内に あらゆる法令の審査・制定を行う 参事院( 後、内閣法制局となって現在に至る )を新設して 参議 伊藤博文を 初代議長に兼ねしめ、元老院 議長 大木喬任を 司法卿に転じ、参議 寺島宗則を 元老院 議長とし 大蔵卿 佐野常民を 元老院 副議長に 転じている。
金子の上司 副議長の 佐々木高行は、この時 参議 兼 工部卿となり、元老院を去っている。
また、参議 大隈重信と 大隈に連なる 慶応義塾系のブレーンが 一斉に罷免されている。
所謂、明治十四年の政変である。
この後、政権中枢の 佐々木らが 金子の〔 政治論略 〕を 当時の 皇族方に奉呈し、金子に その内容を 講義をせしむる事とし、勅許を得て 有栖川宮 熾仁、威仁( たけひと )、東伏見宮 彰仁(あきひと )、伏見宮 貞愛(さだなる )、北白川宮 能久( よしひさ )の 五親王に、毎月二回 進講の機会を設ける事を 定めている。
この 進講日は、各皇族邸での 持ち回り開講としていた様であるが、当日は 佐々木らの 政府顕官の他、浅野、松浦、鍋島らの 旧大名華族らも傍聴していた。
これらの事で 金子は、皇族たる 五親王の方々や 旧大名華族の人々と 親しく接する機会を得る事と成り、少し 考えられない様な 栄達の端緒を掴んでいる。
こうした 日々を過ごす 金子であるが、私事では いろいろと 悩ましい事も有った様で、この頃 金子邸の 増改築が 落成間近くなって来た頃、襖・障子の費用に 百圓程の不足が生じ、調達の途無く 困じていた処、妻の父 青森県令 山田秀典が 地方官会議で上京中を幸い、妻 弥寿子に 借用の願いに行かせている。
山田は 快く お金を出した上で、これは 新居の祝いに贈与するので、返済の要 無しと言ってくれ 金子は夫妻で 岳父の厚志を謝している。
十二月に入って、金子は 内務卿 山田顕義より 内務省 取調局長 就任の打診を受ける。
この当時、内務省 取調局長は 勅任官で、閣下とも呼ばれる地位であり、二十九歳の金子が就任すれば 異例中の異例となるが、この時 金子は 元老院 副議長の 佐野常民から呼び出され、この十月に発せられた 国会開設の詔勅から、今後 我が国は 憲法の制定に向けて 大きく動き出す事になり、この 大事業の 中核と成すのは やはり 元老院を措いては 他に無く、貴君においても 何としても ここは 元老院に残って 憲法制定の大事業に 尽力してもらいたい旨、説諭される。
金子は ここに 佐野の説諭を容れて 元老院 残留を決めている。
こうした 十二月二十一日、金子は 元老院 権大書記官 昇任の辞令を受け取る。
元老院 権大書記官は 奏任官 五等職 月俸 二百圓。
こうして、金子は この年 三月と 十二月、二回の昇任を果たした事になり、これも 官吏昇級条例中、異例中の異例であり、同僚らの 羨望と 嫉視を 受けている。
5. 秋霜烈日
翌 明治十五年、金子は 三十歳。
明けて、金子家で 新邸での元旦を祝った後に、金子は 元老院 奏任官として、初めて 新年の宮中に参内し、両陛下への 拝謁を果たして 賀詞を奏している。
その 六日、金子は 突然 岳父で 青森県知事 山田秀典の訃報に接する。
山田は 前年暮れに 地方官会議出席で上京中 体調不良を訴えて入院し、年が明けて 急死したものであった。
三月に入って 参事院 議長 伊藤博文が 欧米の憲法制度調査の為 欧米に向け出発する。
この時、金子は 伊藤の随員として同行する 親しい人々を 横浜に見送っているが、その帰りに 岩崎小二郎( 三菱の岩崎とは無縁の人 )、清浦奎吾、白根専一らと 杉田の観梅に出かけている。
清浦は、本書 序章で述べた 清浦奎吾であり、白根専一は 清浦の埼玉時代の県令( 県知事 )白根多助の 次男である。
白根は、明治三十一年 四十八歳で病没するが、健在ならば 内閣を背負う逸材 と惜しまれていた。
この当時 岩崎は大蔵官僚、白根、清浦は 司法官僚で 共に 有能な若手官僚として 金子と親交を結んでいた。
清浦は この時 参事院 議官補で、伊藤の洋行に伴って その後任の 参事院 議長に就任した 参議 山縣有朋の下で、議長官房付書記官を兼務 となっていた。
この後、金子は 元老院 議長 寺島宗則の命により、渡欧中の 伊藤の憲法調査を 輔翼( ほよく )する為、その参考とする 欧州各国の憲法の重要項目と問題点を、調査 取まとめをし「 各国憲法異同科目 」として 議長 寺島に提出している。
寺島は これを 在ベルリンの 伊藤の下に郵送している。
四月には 長男 誠一郎が誕生し、昨暮に 黒田家よりの賜金で落成していた 新宅に 黒田の老公 長溥 及び 前当主 長知夫妻を招いて 謝恩の小宴を開いている。
これは 旧藩時代ならば、金子の当時の身分から考えて、藩主一家を 私邸に招く事など あり得ない事では有ったが、この旧藩主家 招宴の話を聞いた時に、金子の母は 絶句して 腰を抜かさん程に驚き、恐れ入っている。
少し 余談になるが、福岡藩 五十二万石には 幕末当時 およそ 二千家余りの藩士家が在籍していたと思われ、当時の 金子家の序列が 二千より前 と云う事は無かったと思われるので、まさに 世が世ならば と云う事になるが、ただ 旧藩主家側から見れば、最下層身分の金子も 数多い 旧家臣の中の一人と云う事であり、金子の側から見れば 金子の 類まれな資質と、希有の幸運から齎された栄誉であった と解釈していたと思われる。
六月、重病に落ちていた 長男 誠一郎が 死去。
この月、金子は 内務卿 山田顕義の命により、福岡へ 単身政治視察に赴く。
福岡では 母の実家の、矢山金蔵宅の 離れ座敷に止宿しながら、県庁にて 県令、県官と会談し 政治状況を聴取して 実地の視察を行っている。
視察が終わっての 帰途、金子は 馬関( 下関 )から乗った汽船を 神戸で降りて、有馬温泉に 湯治逗留している。
有馬では、「 池之坊 」に 宿を求めるが、空部屋が無く 主人の勧める 近所の雑貨店の二階の 粗末な部屋に止宿するが、この当時の 有馬の温泉は 外湯( 街の中心に有る浴場へ宿から入湯に行く )で、男女混浴で有った。
翌朝 浴場で入湯中、偶然に かって 元老院に奉職して 辞職後 大阪株式取引所 頭取を務める 吉田 某に会うが、吉田は 宿の主人を呼んで、元老院の奏任官たる 金子を 粗末な 雑貨屋の二階に 泊める事 罷りならん として、自分の借り切っていた 上等の部屋を 空けてくれる。
金子は 十数日滞在して、帰途 有馬より 神戸まで、二人挽きの人力車を雇い、車賃を 前払いするが、神戸へ向かう途中の、山中の車夫の溜り小屋で、一人挽きの車に乗り換える様 強要される。
金子は、出発前に 二人挽きの車賃を 前払いしているに付き 成らん と拒み、嫌悪なムードの 雲助連に 取り囲まれるが、金子は 落ち着いて、雲助連に 自分は 官に勤める者であるが、ここから 神戸まで歩いて帰り、神戸の 警察署に命じて、貴様らを 悉く 捕縛してくれる と 言い残して さっさと歩き出すが、二人挽きの車夫が 追いかけて来て謝るも、金子は許さず 歩き続ける。
車夫 二人が、尚も 追いかけて来て 許しを乞うに、金子は 乗って神戸に着いた後、旅館に 警察署長を呼び 事の顛末を話して、悪漢どもの 捕縛を求めている。
翌朝、警察署長が宿を訪れ 昨日の内に 巡査を派遣して 悪漢数名を拘引して 取調中である旨、報告を受けている。
この様な場合、車夫 二人は 謝罪して、約束通り 二人挽きの車で 神戸まで送っており、警察沙汰にまでしなくても と云う 考えもあろうが、ここで 彼らを許せば 向後も 同じ様な事を繰り返し 結局 大人しい客が 難儀を見るに付き 許さず、と云うのが 金子の論理で有り、秋霜烈日の気概を示すものであった。
神戸から 大阪に立ち寄って滞在中、金子は 元老院議長 寺島宗則より 至急 帰京すべしの 電信命令を受け取る。
これを受けて 帰京し、直ちに 元老院に出頭した 金子に、議長 寺島 曰く。
現在、伊藤参議が 欧州各国の 憲法調査の為に、彼の地に滞在中であるが、この度 三条、岩倉の両大臣に諮って、自分が 駐米公使となり 彼の地に赴いて 米国憲法を調査し 伊藤の 欧州憲法と併せた 調査結果を基に 我が国 憲法の起草に当る事としたい。
ついては 米国留学の経験が有り、彼の地に知己も多く 法学の学位も持つ 貴君に、公使館書記官として 私に同行して 米国に赴任し、米国憲法の 調査・研究に当ってもらいたい。
ただ、この件については、現在 私案に付き、追って 佐野 副議長と協議のうえ 正式発令としたい。
と、金子は この件について 米国公使館書記官として 米国に赴き 米国憲法の 調査・研究を行う事は、私自身 切に 望む処である旨 答えている。
しかし、この件は 副議長の 佐野が、今後 金子は 元老院に於いて 憲法草案を作成する上で、中心となる人物であり、この時期 金子を 海外へ派遣する事は 適当に非ずとして 反対し、金子自身にも 懇切に 説示が有って、後 この件は 沙汰止みとなっている。
九月に入って 元老院に 人事異動が発令され、副議長の 佐野常民が 議長となり、幹事の 東久世通禧( ひがしくぜ みちとみ )が 副議長となる。
6. 義弟、団 琢磨
この頃、友人の紹介があり 金子は 自宅に 近衛篤麿( このえ あつまろ )の来訪を受けている。
近衛家は 公家中 五摂家の筆頭の家柄で、近衛は この少し後の 華族令で 公爵を叙爵している。
この時 十九歳の 近衛は、この 二年ほど前 東京大学 予備門に在学中、健康を害して 退学を余儀なくされていたが、英国留学を希望するに付き、金子に 英語の個人教授を 願いに来たものであった。
金子は 週二回 元老院からの帰宅後 英語を教える事とするが、近衛の勉強熱心と 学力の進歩に驚き 滅多に人を褒めない 金子が、この時ばかりは 近衛を褒めている。
近衛は 後、貴族院議長や 学習院の院長を歴任するが、率直で 豪胆な人柄ながら、惜しむらくは 明治三十七年 四十歳で病没している。
十一月、金子は 黒田家 家令の 山田 稔の 来訪を受け、金子の妹 芳子と、団 琢磨との婚姻を打診される。
固より 金子にとって、団は 弟 以上の存在であり、芳子との婚姻は 願っても無い事であった。
当時、団は 米国 マサチューセッツ工科大学を卒業して、金子と共に帰国後、共に 福岡に帰省していたが、福岡県令 渡辺 清の求めで、上京する 金子と別れて、福岡県内の炭鉱山の 調査、視察を行い、その後 大阪専門学校( 旧制 第三高等学校の前身 )の教員を勤めた後、この頃 東京大学 助教授と成って 本郷の 大学 雇外国人用 教師館に住んでいた。
早速、金子は 団と会って 婚姻の段取りなどを話すが、この頃 団は 月俸百圓で 教師館寄寓の身分に付、式も 派手な事は行わず 金子家で 親族のみにて行う事とする。
結婚式がすんで 少し後、金子は 団の 養家の件で、旧藩時代からの先輩の 早川 勇と 月形 潔の来訪を受ける。
早川は この時 五十一歳、幕末の藩政時代、早くから 勤王運動に加わり、長州の高杉晋作らとも交流の有る 古い 志士歴を持っていたが、維新後 司法省に出仕して 奏任官まで務めていた頃、黒田家の家職と共謀して 黒田家の資産の横領事件を起こして免職と成り、二年余り 獄に繋がれていたのを、勤王の志士時代 親交のあった、東久世通禧や 土方久元( ひじかた ひさもと )らの尽力で 獄を出、この頃 元老院 小書記官の職に復していた。
月形は この時 三十七歳、月形も 古い 志士歴を持つが、元治二年の 福岡藩の 乙丑( いちゅう )の獄事件では、従兄の 月形洗蔵が刑死しており、十九歳の 潔は、危うく難を逃れている。
維新後は 司法省に出仕し 東京裁判所 少検事を務めた後、内務省に転じ、この少し前に 内務卿 伊藤博文の命によって、北海道集治監 設置の調査を行い、この時は 完成して開所した、北海道 樺戸集治監の 初代典獄( 刑務所長 )を 務めていた。
団 琢磨は 生家を 神屋家と言い 曲折が有って 諏訪家と名を変えていたが、幼少時に 乞われて 藩の上士で、家老も出す家柄の 大組 六百石、団 尚静の 養子となっていた。
養父 尚静は 版籍奉還の後、福岡藩の 太政官札鴈札事件で 他の ほとんどの上士が 失脚してしまった事もあり、一時期 福岡藩 大参事( 筆頭家老に相当 )を 務めていたが、廃藩置県後に 失職してから いろいろな事業に手を出して 失敗したりした様で、大きな借財を負って、この頃 日々の生活にも事欠く様な 状態だったらしい。
早川、月形 両名の来訪の用件は、団 琢磨の 養父、団 尚静の 生活が立ち行かぬ様になっており 付いては 琢磨との 養子縁組を解いて、琢磨は 実家の諏訪家へ帰る事とし、琢磨から 尚静へ 幼少よりの 養育謝金として 千圓を 金子の口利きで 黒田の老公より 借用して支払う事としては 如何か と云うものであった。
これに対して 金子は、黒田の 老公より 千圓の借用は 可能であろうと思うが、現在 月俸百圓で 結婚したばかりの 団に、千圓の借財を負わせる事は不可であり、また 後々 団は 官途に 就きながら、今 困窮の 養家を去る事は 恩知らずの謗りを受けかねず、それよりも 団は このまま 団家に 留まり、向後 毎月 月俸の一割を 養家に扶助料として 支払う事としたい。
これならば 養家の側も 団の 立身出世を望み 双方に良からんと思う、と 話して 早川、月形 両名を 納得させている。
ところで、どの様な経緯で この時期 早川、月形の両名が、団 尚静の為に 金子を訪ねてきたのかが 良く解らない。
お金を 調達する方法の側から考えると、この当時 千圓のお金を 右から左となると、黒田の 老公を頼るしかなく、老公の覚えめでたい 金子に頼むしかない事は解る、また 団 琢磨との縁の側から考えると、金子は 団の 刎頚の友であり、今 妹 芳子と結婚して義兄と成り、団の 後見人的な立場にある金子に話す事も解る が、早川、月形の側から考えると 先ず 早川は この頃 元老院 少書記官で 金子の先輩ではあるが、この頃は 金子の出世が早い為、職位は下位となるものの同僚である。
月形は この前年に開庁した 北海道 樺戸集治監の典獄であり、大変な苦難のすえ 最初の冬を越して 二回目の冬に入った処であったが、何らかの 監務に関わる所用で 上京していたものと思われる。
それにしても 開庁間もない 大集治監の責任者として 監務を軌道に乗せる為に 寸暇を惜しむ時期であった事は間違いない。
そこで 早川、月形と 団 尚靜の 関係になるが、正直な処 解らない。
今 筆者の手下に有る、福岡地方史研究会が編した 明治初年当時の 福岡藩士総目録と言える〔 福岡藩分限帳集成 〕から類推して、藩政時代に 団 尚靜の所属する 大組の 組下に 早川、月形らが所属していて、廃藩後も その様な関係が 濃密に残っていたのか と考えられるが 確証は無い。
また この〔 福岡藩分限帳集成 〕からの調査も、この当時 人々は 頻繁に姓名・通称名を変えている事と 特に 明治二年八月に 新政府から出された 右衛門、左衛門、兵衛、数馬など 官職名の類型を 通称名に使用する事を 禁止する通達が出されている事も、尚 調査を困難にしている。
7. 憲法調査
明けて 明治十六年 金子は三十一歳となり、この頃 ようやく 公私 共に 身辺が落着いて着た様である。
一月に 早川らと 熱海に避寒に出かけたり、三月には 小松宮、伏見宮、北白川宮の三宮殿下 主催の 蒲田の観梅会に出かけて 楽しんだりしている。
四月、太政官により 「 地方巡察条規 」が定められ、金子は、現職のまま 元老院議官 渡辺 清と共に 地方巡察使を拝命して 東海、北陸、東山 三道の巡察を行い 太政官に対して〔 明治十六年地方巡察使紀行 〕を提出しているが、これを契機に 地方制度の組織、官制に関わる 行政法に興味を持ち始めて、地方制度 即ち 県、郡、市町村の 組織 及び 官制などの地方行政に関する、調査・研究を始めている。
翌 明治十七年 二月、金子の許に 東京師範学校校長 高嶺秀夫が来訪し、同校の学生に 地方制度に関連する法令 特に 中央省庁と 地方府県庁の組織、権限に付いての 概論の教授を 依頼する。
金子は 議長 佐野常民の承認を得て 東京師範学校 教授の辞令を受け取り、週二回 行政法概論の講義を行っている。
三月に入って、政府内では いよいよ 参議 伊藤博文を中心に 憲法制定へ動き始めており、宮中に制度取調局が設置され、伊藤が 初代長官と成り、宮内卿を兼ねる事になる。
これは、天皇主権国家の制度を執る 明治政府において、憲法の制定は まず 天皇、宮中の理解を求めるところから 始める必要が有った為と考えられる。
四月、金子は 参事院 議官 井上 毅( いのうえ こわし )の 来訪を受け、井上より 参議 兼 制度取調局 長官の 伊藤から面談の要請が有るとの事で、伊藤の公邸まで 同行を求められる。
金子は 伊藤との面談時、現職のままで 伊藤の秘書官と成って、憲法取調べの為にと 尽力を要請されるが、金子は これも 議長 佐野常民の承認を得て 承諾し、新たに 任太政官権大書記官 兼 元老院権大書記官 兼 制度取調局御用掛 の 辞令を受ける。
こうして 金子は 制度取調局の長官 伊藤の下で 井上 毅、伊藤巳代治( いとう みよじ )らと 憲法の取調べに 従事する事と成る。
七月、政府は 憲法の制定と並行して行う議会の開設時、上院に当たる 貴族院の議員を選出するための下準備として 華族制度の創設を行う。
華族制度は 五爵の階級 公・候・伯・子・男 を定め 旧公家を堂上華族、旧大名等の武家華族、維新の功労者等の勲功華族などに それぞれ 授爵する事としたものであったが、制度の設計時 堂上華族 及び 武家華族を ひとつの叙爵対象とし、勲功華族などは 別の制度で 叙爵すべし、とする 右大臣 岩倉具視等と、すべての華族を 同一の叙爵とすべく主張する 参議 伊藤博文等とで 大きな 論争となるが、岩倉の死去で 伊藤等の主張する すべての華族を 同一に叙爵する制度として 創設される。
ちなみに 金子は 明治三十三年、大日本帝国憲法 制定時 の功績で 男爵に叙爵され、明治四十年 長年の国政参与の功績で 子爵に昇爵、さらに 昭和十三年 勅命による〔 明治天皇記 〕編纂 完成の功績で 伯爵に昇爵している。
この頃 黒田家では、当主 長成の 東京大学 予備門卒業と、英国留学の時期と成り 老公 長溥の命によって、長溥の実家 島津家より 島津忠義の長女 清子( さやこ )を 長成に娶り、その半年ほど後に 英国留学に向かう事となるが、これに 金子が 異を唱えて 老公 長溥に 諌言している。
金子は、年若い 長成が、半年間の 新婚生活の後、妻と別れて 遙かな外国に赴き、刻苦勉励に勤しむ事は 困難と思われるに付、出発の前は 婚約のみにとどめ、一学を修めて 帰国の後に、婚姻となすべき旨 言上し、老公 長溥は これを容れて 直ちに 家令 黒田一雄に 島津家への通知 及び 諸般の変更を 命じている。
この 金子の 老公への諌言時、最初 老公 長溥は 金子に対して 厳しくその理由を問い質すが、前記の 金子の説明に 即座に納得している処から、金子への 信任の篤さと 金子の直言を容れて 殿様らしからず、過を改むるに速やかなる処に 金子は 何時もながら 感激している。
八月に入って、太政官より、官吏である 勅任官、奏任官に対して 乗馬飼養令が発布される。
これは 政府を挙げて 軍馬の改良に取り組む 政策の一環であるが、金子は 乗馬の経験が無く この時、伝を求めて 陸軍の戸山学校に通い 乗馬を習っている。
そして、金子は この時、自宅の裏の空き地に 厩と 馬丁部屋を新築し 馬一頭を買い入れ、馬丁一人を雇っている。
ちなみに この当時の、金子家の支出の状況が 記録されている。
先の 厩と 馬丁の他、門番小屋に お抱えの車夫と 人力車を備え、他に 書生一人、女中四人、母、妻、金子本人の 計十人の生活費が 月間 約 二百圓と 記されている。
ちなみに この当時の二百圓を 平成二十五年時の 現価で見てみると、日本銀行の『明治以降卸売物価指数統計』での 概算 約 七十六万円程であるが、これも 一般庶民の感覚的な 重みとしては 三百万円位ではないかと思われる。
8. 国体論争
九月、金子は 参議 佐々木高行より 一通の書簡を受け取る。
佐々木によると 現在 閣議( この当時 まだ 内閣制度は無く 太政官における 大臣、参議による国政会議 )に於ける 憲法に関する議論で、参議 伊藤博文により 制度取調局 長官の立場から「 憲法の制定によって わが国の 国体は変更される 」との発言が有り、これに対して 佐々木は 異論を唱えているものの 論拠を明確にできず、伊藤の 博識、雄弁に圧されて、反論が敵わぬ状況にあり これに付いて、金子の意見を 乞いたいというものであった。
これに対して 金子は、「 国体は 時勢の変遷に伴って 変更される 」という説は、国体と 政体を混同した議論であり、間違いである とし 例えば 欧米の 政治学の原理から、一国の政治形態が 君主制から 共和制に変更された様な場合、これは 政体の変更であり、政体とは 我が国における 特有の 政治的名称である国体とは 別の概念である。
したがって、我が国における 国体とは 古よりの 国学に論じられる、万世一系の皇統を以って 無窮に践祚・継承せられる天皇を戴く、君主国家としての 日本国そのものであり、この度の 憲法の制定においても、国体が変更せられる事はあるまじき事 と論じ、一文を成して 佐々木に提出している。
この後、一日 制度取調局の金子の前に、突然 伊藤参議が現れ、金子の 机の前に座を占めて、佐々木の知恵袋は君の様だが、憲法制定による 国体の変更論に付いて議論しよう、と 持ちかけている。
伊藤は 政府の顕官に在りながら、こうした 気さくな処が有り、周りに人を集めている。
伊藤と 金子の議論は、殆んど 一時間にも及び、結論の出ぬまま 伊藤が去り、後 この件に付いて 議論される事は 無かった。
そして のちの後、伊藤は 明治四十一年に行われた 憲法発布二十周年記念式典における 基調講演で、本憲法の制定は 国体を変更するか 否か、学者間に於いても 議論の成される処であったが、私は 断じて 憲法の制定は 国体を変更せず、政体の変更を成すのみ と考えており 云々、と 述べているが、金子は 伊藤の 伊藤らしさを、微笑みをもって 回想している。
以前より 金子は 黒田家に於いても 家憲を 制定しておく事の 必要性を痛感して、老公 長溥に対して、家憲 制定の 進言を行うが、老公は 事は重大に付き 考えおく を 繰り返すのみで、進展を見ていなかったが、この年 七月に 宮内省より 華族令が発せられ、各 華族家においても 家政の 紊乱、財産の蕩尽など、不祥事を未然に防ぐ必要から 家憲の制定を求められる事と成り、これを機会にと 十一月に入って、金子は 再度 老公に 家憲 制定の進言を行い、これを 容れられて 草案の起草を命じられる。
金子は 草案の起草にあたって、黒田家の特色を考慮し、戦国末期から 江戸初期の 家祖 如水、長政 時代の遺訓を基礎として、有馬家など、他の 華族家の家憲をも参考にして まとめ上げ、老公に提出し 承認を得ている。
この後、金子は 老公より、この 家憲の草案を持って 福岡に下り 旧藩時代の 家老はじめ 重臣一同に これを開示して その意見を聴き、しかる後に 決定すべしと 命じられる。
また、この当時 福岡県では、県令と 県議会の対立から、県立中学校が廃止されてしまい、福岡県民は 子弟に中学教育を受けさせる事が 出来ない状態となっており、これを憂いていた 老公 長溥は、金子に対し 旧藩校の修猷館を再興して 中等教育を行える様にし、その費用を 県議会の議決に頼る事なく、黒田家よりの支出で 賄う事とする様に 重ねて命じている。
こうした時の 金子は、特に有能であった。
先ず、金子は 修猷館再興の為に 即座に 文部卿を訪ね、中等学校局と協議して 私立 修猷館中学校の設立と その認可の 内諾を得た後、伊藤参議を訪ね 事の次第を説明して、年末から年始へ 二週間の 賜暇を得ている。
そして、年末も押詰まった 十二月二十八日の 御用納めの後、金子は 横浜から便船に乗って 福岡に 向かっている。
明けて 明治十八年、年末から 年始にかけて 船中に揺られた 金子は 正月二日 福岡の 黒田家別邸に入り、直ちに 老公の名で 旧藩時代の家老 黒田一美 他 旧重臣ら十数名を招集し、家憲の草案を示して 内容を熟慮の上、意見あれば 具申する様 求めている。
また 県令 岸良俊介( きしら しゅんすけ )に会い、先に 文部省 中等学校局より 設立 認可の内諾を得ている、私立 修猷館中学の 開校に 種々 尽力を依頼し、五月三十日をもって開校する旨の 公布にこぎ付けている。
その後、金子は 再度 黒田家別邸に 旧家老、重臣らを招集して、黒田家 家憲の草案に対して、一同 聊( いささ )かも 異とするところなく、本 家憲の 制定をなせる、老公の英断にかたじけなくも深く謝する旨の、全員の意見を預かり 帰京する。
帰京後、直ちに 金子は 黒田邸を訪ね、老公に 福岡における 状況、次第を報告して、老公の満足の意と、慰労の言葉を 賜っている。
この年、金子は多忙を極める。
七月に入って、この頃 北海道においては、明治十五年七月の 開拓使 廃止の後を受けて、北海道開拓行政を担ってきた 札幌県、函館県、根室県 及び 農商務省 北海道事業管理局の 三県一局体制による 拓地殖民行政が、その非効率から 破綻の危機に瀕しており、農商務卿 西郷 従道( さいごう つぐみち )より 北海道行政の 抜本的な改革の必要性が 内閣に具申されていた。
しかるに、内閣においては、先ず何よりも 正確、詳細な 北海道の現状を、具に識る必要ある として、参議 伊藤博文より、金子に対し 夏休暇を利用して北海道を視察し、その復命と 改革案の提出が 命じられる。
これを受けた金子は、太政官 判任御用掛 奥田義人( おくだ よしと )を 随行員として 北海道に向け 視察の旅に 東京を 出発している。
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秋霜烈日の人(6) 第四章 明治十八年 巡視、復命、教育ヘ