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  秋霜烈日の人 4.

 


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  第二章   明治四年 留学

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1. 出発前夜


  ここまで、本書の主人公を 堅太郎と 名前で呼んできたが、この年 八月の 福岡県庁よりの 給費留学生 帰国命令に際しての 果敢な決断や、敢えて 平賀家の学僕の道を執るなど しっかりとした 現状認識と 目的意識を持つまで 成長した 金子堅太郎に 敬意を表して、ここから 姓の 金子で呼ばせていただく。

 

 米国出発前の 金子は、何かと慌ただしい日々を送る。

 そうした一日、金子は 団 琢磨と共に 黒田長知の供をして、文部省許可の外国留学生に 慣例として 命じられる 宮中 賢所( かしこどころ )の 参拝を果たしている。

 これは、宮内省に出頭して 賢所に拝し、階下で 土器にて神酒をいただき 土器を拝受して帰る としており、明治二年の 東京遷都から わずか二年の 、明治四年のこの時点で すでに この様な 儀典的なシステムまでが 形を整えつつあり、明治新政府の 政治システムが、着実に、急速に 定着しつつある様子を 知る事が出来る。 

 また、この頃 金子は 黒田の老公( 前藩主 黒田長溥 )に 何くれと無く 目をかけられていた様子で、洋行の準備と云う事で 長知、団と共に 洋装の服、靴など 一式を 横浜から 英国人の洋装師を招いて 調製してもらったり、渡米後の為に 西洋料理に 慣れる事も必要として、一日 築地の 西洋料理店で 西洋料理の送別宴を開いてもらったり、はたまた 長知を通して、団と 二人に 金鎖付き金時計を賜っている。   

 金子は 後に、当時 金時計と云えば、大名 それも大藩出の 華族ら以外 なかなか 持てる様な物では無かったと 回想している。

 

 さて、この度の 岩倉遣欧米使節団は、当時の日本として 相当に思い切った規模の 使節団を組織しており、この年 十一月 岩倉大使 以下 総勢 百十余名が、米国籍の 汽帆船 アメリカ号を借り切って、先ずは 太平洋横断の旅に 横浜から 出航している。   

 使節団は 特命全権大使に 岩倉具視と 副使に、参議 木戸孝允、大久保利通、 工部大輔( こうぶだいふ : 工部省の上級次官 ) 伊藤博文、 外務少輔( がいむしょうゆう : 外務次官 ) 山口尚芳の他、官僚、軍人、旧大名家の華族、公家出の華族等 多彩を極めており、また 北海道開拓使 長官 黒田清隆の建言で実現した、開拓使の官費女子留学生として 後の津田塾大学 学祖となる 津田梅子ら 五名も含まれていた。  

 また 岩倉大使の 米国での案内役として、当時の 駐日アメリカ公使 デロング夫妻が 娘と共に 同乗していた。  

 

 この 使節団 乗船の アメリカ号は、排水量 四千五百トン超の 当時 アメリカ 最大級の 新鋭 外側輪 汽帆船で、ニューヨークの造船所で建造され 米国の 太平洋郵便蒸気船会社が サンフランシスコ - 横浜 - 香港間を 定期運行させていたものを、この時 使節団渡航の為に 日本政府が借り切っていた。

 船は 木造船ながら 大変に大きな船で、上等の客室のみで 約百人を収容でき、その他 大部屋的な雑居船室には 合わせて千人以上の乗客を 収容出来た とある。

 

 

2. 航海


 十一月十二日、アメリカ号は 横浜港を出航した。

 船が 観音崎沖にかかる頃、この先の 大洋に出でての 万里の波涛と、行く先 米国での留学への 期待と不安の錯綜した気持ちから、金子は まさに 「 辞本涯 」( じほんがい : 弘法大師 空海の遣唐留学時 日本を辞する時の言 )の境地であった。

 この船中、出港当初は 伊藤博文ら 洋行経験のある一部の者を除いて、金子ら ほぼ 全員が船酔いで ベッドから 起き上がる事も出来ずに過すが、外洋に出て 三日後くらいから ほとんどの者が 少しずつ 船の動揺にも慣れ、ようやく甲板上に出て 新鮮な空気を吸い 食堂で 食事を摂る事が 出来る様になっていった。

 金子ら 三名は 上等船室の一室を占有していたが、金子にとっては 同行の 黒田長知は 主筋であり、団も お坊ちゃま育ちで まだ子供である為、殿様( 黒田長知 )の靴磨きから 着物の世話まで何かにつけて 雑用などをこなしながらの船旅であったが、下級士族の出で、旧藩時代の下積み勤仕や 平賀家での学僕生活の経験もある 金子には それ程 苦にはならなかった様である。

 この時、黒田長知は 三十三歳、金子が十九歳、団が 十三歳であった( いずれも 数え年 )。

 この時の事を、団は「 僕などはホンの小僧っ子、金子が 十八か九、殿様に接する事はまるで分らぬ。殿様は実に困ったろうと思います 」と、後に回想している。

 

 さて、金子の 回想から 船中生活の様子を いま少し。

 ほとんどが、洋式の生活など 露知らぬ輩を 百十余名程も乗せた アメリカ号の船内では、これも 伊藤ら一部を除いて、食事時に 洋食のマナーなどに頓着する者など無く、船員はおろか 支那人のボーイにまで あきれさせる、あまりの 有様に、外国生活の経験のある 平賀義質が 伊藤と図って 洋式食事マナーを 図示したものを 作成し、岩倉大使より 回状せしめる事で ようやく 食事時の 食堂も落ち着いたが、太政官書記官で 今回 使節団の理事官の一人 久米邦武が、平賀ごときが 我らに 洋食マナーなど 教えを垂れるとは 不埒千万、拳骨を喰らわしてくれる とか、息巻く始末であった。

 久米は 旧佐賀藩士で、この時 三十三歳。

 後、東京帝国大学教授で、「大日本編年史」など国史の編纂に尽力する歴史学者であり、同郷の大隈重信と親交がある。

 この様に、学者然とした 久米の様な人物にして この様な有様が、時代の沸騰する 維新の回天から わずかに四年、未だに 人物も沸騰 冷めやっていない様子を 垣間見る事が出来る。              

 久米は この欧米視察からの 帰国後「 特命全権大使 米欧回覧実記 」をまとめ、太政官に提出している。

 また、岩倉大使らは 自若として 食堂の一角に 座を占め、木戸、大久保など 碁客を集めては 囲碁に 明け暮れする様子であり、これらも また 時代を代表する 大物たちの 大物然とした所が また 興味深い。

 

 この船中、金子の回想に 度々 伊藤博文が登場する。

 ある日、金子ら書生連に 伊藤より 甲板上に集まるべし と 回状が有り、何事かと 集まった 書生連に 伊藤 曰く。

 昨夜、便所前の広間にて 大便を成した者あり、これは 国辱ものであるから 以後は 便所内の便器で成すべし と、これに対して 書生中の 何某かが、伊藤副使の 仰る 大便を成したる者は 我ら 書生連とは限らず、船中設備を知らざる 上の人々かも知れず と申し上げたところ、伊藤は 苦笑して 尤も、尤もと言って去ったとある。

 はたまた、ある日 船旅も 何日か過ぎて 乗船する面々も いくらか 船に慣れてくると 晴天の日など 甲板上に出て 暇に明かした 団欒なども楽しみになってくるが、団欒中の議論、快談中は 常に 伊藤が 中心になり、周りに 外務官僚の 野村 靖や 福地源一郎など、多くが囲んで 談笑しており 金子ら書生連も 傍らで これらを 聞くのが 楽しみであった と 回想している。

 

 今少し 伊藤について。

 伊藤は この後、明治期の政治家として 輝かしい経歴を重ね、日本の近代史に 大きな足跡を残すが、この 明治四年時点の 僅か 数年前の幕末 動乱期には 俊輔と呼ばれ、短期間ながら 長州 萩で吉田松陰の 松下村塾に学び、松陰の刑死後、聞多と呼ばれていた 後の 井上 馨と共に 勤皇倒幕の士として活動し、佐幕派の国学者 塙 次郎らの暗殺をしたり、井上と共に英国に密航して 一年ほど 彼の地で暮らしたりしている。 

 この 密航時の船中と 英国での生活は 重労働を課されたり、鞭うたれたりの 殆んど 奴隷に近い扱いであったらしいが、奴隷と違っていたのは 米英仏蘭 四カ国連合艦隊による 長州藩攻撃が近いと 伝え聞くや、井上と共に 帰国を決意して 俄かに 主人を脅し上げる様にして 金品を調達し、帰国の途に就いている事で有り、従順な学僕と思い込んでいた 二人の東洋人に 突然 脅し上げられた 主人はさぞ 驚いた事であろう。  

 

 この時の横浜出航時、伊藤らと同行した 総勢五人の一人、山尾庸三の日記から 長州五傑等の話が伝わっているが、伊藤、井上が 山尾らと同行したのは、当時の上海まで( 洋装の五人が写った有名な写真は 上海で撮影されたもの )で、その後は 全く別行動をとっている。

 ついでながら、五人の内 後に明治政府の顕官と成った 伊藤、井上の他 山尾庸三ら 三人は 英国留学から帰国後、山尾は工部省で 次官を務めて後、長官の工部卿まで務め、遠藤謹助は 造幣行政に携わり 造幣局長まで務めており、井上 勝は 鉄道行政に携わって 後、日本鉄道の父 と呼ばれる等、明治期の日本近代化に それぞれ実務分野で貢献している。

 さて、伊藤。 

 英国からの 帰国後 高杉晋作の 奇兵隊に参加して、江戸幕府による 第一次長州征討後の 長州藩の幕府に対する 恭順論から 倒幕論への 藩論の転換に奔走し、高杉の 病没後は 木戸( 当時 桂小五郎 )の下で 堪能な 英語を駆使して 外交交渉の場などで 木戸を支えるなどし、維新後は 木戸と共に 新政府で 重きを成して ここに至っている。

 

 何はともあれ、維新後の 新政府に重きを成している連中では、岩倉にしても 三条にしても 薩摩の大久保、西郷にしても、長州の 木戸らにしても、何れも 陰性の 印象が濃い中、殆んど 唯一 伊藤のみが 陽性の印象が濃厚に有り 常に 周りに人を集めている。

 話は飛ぶが のちの後、伊藤が 満州のハルビン駅頭で テロリストの 凶弾に倒れた時、三十分ほど 息が有ったと伝えられているが、この時 伊藤の脳裏に 若き日の 国学者暗殺の愚行を思い 因果は巡る と云う考えが浮かんだかは 定かでない。

 

 さて 船旅の途中は、太平洋の真ん中で 日付変更線を 西から 東へ超える事となる。

 金子らを乗せた アメリカ号は 明治四年十一月十二日に ここを通過し、翌日が 十四日になる事を聞いた 金子は何故かと 訝しみ その理由を 乗船中の学者連に尋ねるも 明快な答えが得られず、不満を漏らしている。

 横浜を出港して 二十二日目、出港当初は てんやわんやであった アメリカ号の船内も 日付変更線を越える頃からは すっかり落着き、この日 十二月六日 早朝、アメリカ号は サンフランシスコの金門湾に入り、二十一発の礼砲を受けて サンフランシスコ港に接岸した。

 

  

3. 上陸、大陸横断


サンフランシスコでの 金子ら 岩倉使節団一行は、ホテルに分宿して、市内有力者の歓迎宴や 市内の見物などに日を費やしているが、金子の 初めての米国の印象は 特に 商店の繁華、馬車鉄道、街路を行き交う人々、などが 目を見張るもの と回想している。  

 こうした一日、金子は 黒田長知、団 琢磨と共に 平賀に伴われて 遊郭の見学に出かけている。

 遊郭では 明るい ガス灯の照明の下 着飾った女性が 客を誘引する様が、日本の 品川や 新宿と変わらず と回想しているが、登楼したかまでは 記録していない。

 この サンフランシスコでは、会津人 西川友喜、及び 桑名人の 多勢 某と云う 二人の日本人が 黒田長知を訪ねて来ている。

 二人は 会津、桑名の藩士として、戊辰戦争で 新政府軍と戦った事から 賊軍となった事を恥じて 日本を脱し、米国にて 身を立てんと サンフランシスコで 米国人の下で労働に従事している との事で、黒田は 平賀と謀って、西川を 通訳として雇入れ ボストンまで 同行させる事としている。   

 

 サンフランシスコに 二週間ほど滞在した後、岩倉大使一行は 貸切列車にて カリフォルニア州 州都の サクラメントに向かう。

 サクラメントでは、カリフォルニア州知事の 岩倉大使一行 歓迎晩餐会にのぞんで、翌日 いよいよ 鉄道での 大陸横断の旅に出発する。

 この当時、アメリカでは 東海岸のニューヨークと 西海岸のサンフランシスコ間に 大陸横断鉄道が開通しているが、途中の シェラネバダ山脈や ロッキー山脈の 峻嶮な 山岳越えが有り 特に 冬季は 積雪によって 一時的に不通になる事も珍しくなかった様である。

 この時も、岩倉大使一行の 貸切列車は ロッキー山脈の手前に差し掛かったところで ロッキー山中の積雪で 通行不可の電報を受け、ソルトレイクシティーで 除雪待ちを行う事となる。

 

 金子の回想によれば、当時の ソルトレイクシティーは ユタ州の州都なれども、極めて 貧弱、狭隘な街で ホテルも一軒しか無く、岩倉大使ら一部のみ ホテル宿泊とし 他は 列車の寝台を ホテル代わりにして、結局 ロッキーの 山岳越え 開通まで 十八日間を ここに滞在する事となった と記している。

 ソルトレイクシティーは モルモン教の本部のある町として知られ その 壮麗な 本部教会堂と 大管長 ブリガム・ヤング の邸宅における 一夫多妻の生活を見聞しているが、大管長 ブリガム・ヤングは この当時 十数人の妻を持ち、数十人の子を成していた とあり、また その邸宅は、一妻と その子女ごとに、一棟を建て 並べて 所有し、外部から 一見して 多妻同棲の様子が知り得ていた とし、日本にも 実質 一夫多妻と謂える蓄妾の習慣は有るが、あくまでも陰の存在としており、金子は 米国には 奇怪なる宗教ありと 驚きを 記している。

 

 明けて 明治五年、旅の途中の 金子は 二十歳となる。

 正月を 金子ら一行は ユタ州 ソルトレイクシティー郊外に 停車中の列車の 寝台起居で迎える事となる。

 この時は、つい 数年前まで 日本有数の大大名であった 百万石の 旧前田候、五十二万石の 旧黒田候( 黒田長知 )に、三十五万石の 旧鍋島候ら 殿様連も 金子ら書生と同様に 不自由な 列車生活を余儀なくされており、元日のみ ホテルにて 岩倉大使の招きで 新年会を催したと語っている。

 

 一月十四日、ロッキー越え可能の 連絡を受けて ソルトレイクシティーを出発し、ロッキー山脈に分け入るが、金子は その雄大な群巒の景色に 感嘆の念を記している。

 この後、列車は ロッキー山脈を越えて アメリカ中西部の大平原を ひたすら東に向かって進んで行くが、列車が この 無限の荒野の停車場に停まると 何処からともなく 近傍の原住民( アメリカインディアンの人々 )が現れ、粗雑な品々を 売りに来た と記している。

 これらの人々について 金子は 次のように記している。

 

 「 其の容貌は野蛮の情態にて銅紅色と真黒の頭髪とは白哲人種に対照して頗る奇怪なり 」と。

 

 大平原を ひたすら走って、一月二十四日 列車は シカゴに到着する。

 シカゴ 到着時、岩倉公の子息で 当時 ニューブランズウイック市に留学に来ていた 岩倉具定と その随員が 出迎えに来ていた。

 この時の事を 金子は、ご子息 具定は、父の 岩倉公が 右大臣の正装たる 衣冠束帯と髷の姿に 大いに驚き、速やかに 断髪して 洋装に改めざれば、米人をして 日本より見世物が来たと 喜ばすのみ と諫めるものの、岩倉公は天皇より 全権を委嘱されし身なれば、右大臣たる 正装 改むる能ず と 拒むが、子息 具定は されば 我らは これより 父公の通弁役を断る と再度 諫るに、ようやく 岩倉公も 断髪して 洋装に改めたり と記している。

 

 余談をひとつ。

 岩倉具定は 岩倉全権の次男で、嘉永四年十二月( 一八五二年一月 )生まれで、この時 二十一歳。

 戊辰戦争では 父 具視の代理として 征東軍に従軍している。

 慶応四年三月の官軍による 江戸城 総攻撃の二日前、十六歳で 征東軍の東山道軍司令官となって中山道 武州蕨宿の陣営にいた 具定は、幼い折に近侍しており、この時 先の十四代将軍 故徳川家茂に降嫁していた、皇女 和宮の 筆頭侍女 玉島の訪問を受け 和宮よりの親書を受け取る。

 和宮は 先に亡くなった 十四代将軍 徳川家茂の 御台所( 正妻 )として、江戸市街を 戦火から守るための嘆願を 親書に認めていたものであったが、時勢の大きなうねりの中、先帝( 孝明天皇 )の皇妹といえど、一個人の願いが 曲折を経た後、勝 海舟、西郷隆盛の会談を経て、江戸城無血開城へと 実を結んでいく。

 この折、若き 岩倉具定が、幼き日を思い 六歳年上の 皇妹 内親王に 何を思ったか 定かではない。     

 

 シカゴにて 金子らは 黒田長知に従い、首都 ワシントンへ向かう岩倉大使一行と別れ ニューヨークへ向かう。

 ニューヨークでは 旧福岡藩時代に 藩命でアメリカ留学に来て 現在 ボストンのハーバード大学 への 入学準備中と云う 井上良一が迎えに来ていたのに会い、ニューヨークに一泊後、さらに 汽車を乗り継いで ボストンに向かい、ボストンでは 今一人の 旧福岡藩 藩費留学生 本間英一郎の 出迎えを受ける。

  

 

4. ボストン着


こうして 黒田長知、金子堅太郎、団 琢磨の三名は、横浜出航後 約二ヶ月半をかけた 大旅行の末無事に 目的地 ボストンに到着した。

 この 大陸横断の旅では、黒田が平賀と相談して サンフランシスコで 通訳として 雇い入れた 会津人 西川友喜を 大変に重宝したと 記している。 

 それにしても、江戸幕府の終焉と 維新による 明治新政府の樹立から 何年も経ていない この時期に すでに アメリカ各地に 多数の日本人労働者や 留学生が入り、それなりに 日本人間の ネットワークが 出来上がっている様子を知る事が出来る。  

 

 ボストンでは 金子ら それぞれが 下宿屋に落ち着いた 一日、岩倉使節団の 理事官の一人として 岩倉大使に同行して ワシントンに赴いていた 平賀義質が 金子らの 向後の勉学方針を定める為 ボストンに来ている。

 この時 平賀は、出発前に 老公 黒田長溥より受けた指示から、黒田長知については すでに 齢 三十を過ぎてもおり 語学としての 英語を身につける事と、出来る限り アメリカでの 見聞を 大きく広めた後に 帰国する事とし、金子と 団については、何年かかろうとも 一科の学問を修むべし との 長溥公の意向に沿うべく、先ずは 学校にて 英語を学ぶところから 始めるべし と定めている。

 これによって、金子と 団は 小学校から 中学、大学へと 一貫した 完全なアメリカの学校教育を 受ける事となる。

 

 これより前、金子と 団は 黒田家より 学資金として 一年分 金貨で各千圓ずつを 横浜出航前に外国銀行へ為替として 入金してもらっており ボストンの銀行支店にて 必要に応じて引き出す事としていたが、この 千圓について 少し考えてみると、この当時の千圓を 平成二十五年時の 現価に換算して 日本銀行の『明治以降卸売物価指数統計』での概算 約参百八拾萬円程となるが、一般 庶民の感覚的な 重みとしては 壱千萬円を 優に超えていると思われ、二十歳の金子と 十三歳の団の学資として 日本とアメリカの物価水準から 一概に論ずる事は出来ないにしても、日本 出発前に 金子と 団が 賜った高価な金時計の事と合わせ考えても 当時の 旧大名家の 豊かな財力が知れる。    

 

 これより、ボストンにおける 金子と 団は、市立の高等小学校の女性教師宅に下宿を定め、この 女性教師 ジャセー・アリスンの 勤務する 高等小学校へ、他から来ていた 日本人留学生 吉川重吉、田中貞吉 二名と共に 第四学年に 編入学する事となる。

 吉川は 旧岩国藩主 吉川候の弟で 田中は その随員であった。  

 

 この当時のアメリカの 公立学校は、二年制の初等学校( 六、七歳 )から 六年制の 高等小学校( 八 ~ 十三歳 )に進み( ここまでが義務教育 )、さらに 三年制の高等学校( 十四歳 ~ 十六歳 )から 大学へ進む制度となっていたが、それぞれ  飛び級の制度があった様である。

 高等小学校 入学後、ここでも 金子は 成績 頗る優秀で、この年 九月、十月の各月末試験で 首位となり、わずか二ヶ月で 第四学年を通過して この月 第三学年に進級している。

 さらに 翌 十一月、十二月の月末試験でも首位で、科目は 読本、算術、地理、作文とあるが 小学校の試験といえども アルファベットから習い始めて 一年足らずである事と、実際 金子と 同時に編入学した 他の三人も 相当に優秀な成績を上げていた様であるが、この時点で まだ 第四学年に留まっている事を考えると やはり 金子の 抜けた秀才ぶりを知る事が出来る。

 

 

5. 留学生活


 翌 明治六年、ボストンの冬は 雪が積り 寒さが厳しく 通学は難渋するも、金子は 一月、二月の月末試験でも 成績優秀につき 第二学年に進級しているが、この時 団ら 三人も一足遅れで 第三学年に進級している。

 この 第二学年では さすがに 成績優秀な子もおり 金子も 首位を通す事は出来ず 時に 二位、三位に 甘んずる事もあった と語っている。

 

 こうしたある日、ワシントンより 駐米公使の 森 有礼が ボストンを訪れ、ボストン市学務委員長 チャールス・フリントと共に 金子らの学校を視察している。    

 この時 森は 金子ら 成績優秀な 日本人留学生に満足の意を表すと共に、次の様な訓示を行っている。

 日本の将来は 諸君らの双肩に懸かっているが、現在の日本語は不完全で 日本を 文明国の域に達せしめるためには、将来 思い切って日本語を止め、現在の英語を 多少 日本向けに改良した 謂わば 「 ジャパニーズ イングリッシュ 」を作成して これを日本語とする必要がある。

 また、日本人種 そのものを 改良する必要もあり、その為 日本人は 積極的に アメリカ人との婚姻を進めるべきである と。

 これに対して金子は、随分と突飛な意見を吐くものと 内心 あきれ、述懐している。

 この頃、森は 実際に 米国人の女性と結婚を考えていた様であるが、これは果たせず、帰国して後に 有名な「 契約結婚 」を行って 世間を驚かせたりしながら、後々 文部大臣まで上り詰めてからも、さすがに 日本語を止める話は語っていない。

 

 六月に入って 金子は 第一学年に進み、団ら 同僚留学生や 下宿先の家族らと避暑に出かけたりの 学生生活を楽しみながら 米国社会にも溶け込み、社交的な金子は  多くの知己を得ている。   

 この頃、金子は 米国留学 一年経過の節目にあたり 将来の修学すべき 学問専科を定める必要があり、日本が 四囲 海に囲まれた海国であるに付 海軍兵学校への入学を志す事とし、懇意の医師に相談するが 医師曰く。

 診察したところ 特に悪いところは無いが、さりとて 特別 頑強な体でも無いので 特に 海軍を目指すべき家柄でもなければ、他の専科を考えては如何か と。

 こうした事から 金子は 熟慮のすえ 自身の父が 福岡藩の藩政に関係した縁を考えて、法科大学への入学を目指す事とする。                    

 九月に入ると、団が マサチューセッツ工科大学 入学を目指すため、ボストンを去り ウオーバンに転居して 予備校へ通う事となり、金子は 一人 アリスン家で下宿しながら 翌年の 高等学校 入学の準備に没頭する事になる。

 

 明けて 明治七年、この頃になると 英語力の付いてきた金子にとって 学校の授業内容自体は 然程のもので無い為、高等学校では 第一学年を飛び越えて 第二学年編入学を目指す事とし その受験対策として 特に 代数、英米文学、フランス語を アリスン女史に学び始め、この年 九月には 目指す ボストン公立高等学校 二年次編入試験に合格している。

 この少し前、二月のある日、金子は 激しい 頭痛と悪寒に見舞われ 高熱を発して倒れ 医師の診察を受けるが 悪性の風邪と診断されて 数日間起き上がれず 自身で 腸チフスを疑っている。

 実際、これより少し前 親交のあった ハーバード大学の 法科留学生 名和道一が 腸チフスで客死している為、さすがに 金子もこれまでかと 弱気を発したと記している。

 この時の 臥床療養は 一ヶ月半にも及び、何とか快癒して 登校出来る様になったのは 四月に入ってからだった。

 この当時、米国の公立高等学校制度では、在学中の三年間 毎週一回 軍事調練が課されており、予備役の軍人が来校して その指導に当たっていたが、維新前に福岡藩で 兵卒として英式調練を受けていた経験のある金子には 然程 苦にはならなかった様であるが、少年時代に 専門の 銃師範について 元込め、施条のミニェ―銃で射撃を学んだ 金子にとって、調練に使用する銃が 旧式の 先込め、無施条の ゲベール銃であったのには閉口した と語っている。

 

 翌、明治八年 高等学校 第二学年の授業の内容は さすがに 高度になってきており 金子も 昼夜 十分に勉強しないと 付いていくのが 困難となって来ており、高等小学校当時の様に、成績を 常時、首席を通す様な訳にはいかず、二位から 五位の間くらいを 昇降していた。

 七月に入って 夏季休暇となり 避暑に 下宿先のアリスン家族と 団を加えて ニューハンプシャー州の山間に出かけているが、ここでも 金子は 英文学、数学、物理、化学、鉱物学、仏語、独語、米国憲法、行政法などを 猛勉強をしている。                  

 また、この頃 金子は 勉強の合間に 演説の 研究と演習に努めており、演説の内容はもとより 発音、音調、抑揚、姿勢などについて 具に研究して 練習に励んでいる。

 後々、金子の演説上手は 良く知られる処となるが、特に 英語での演説の資質は この当時に培われている。

  

 

 

6. ハーバード入学


  明治九年、この年 金子は 二十四歳となり、二月の 高等学校三年次の科目履修も 半年間を過ぎた頃、六月の卒業を待たずに 高等学校 退学を決意する。

 これは、九月のハーバード大学の 法科入学を目指すにあたり 卒業までの 残り四ヶ月間を 法科入試に関係のない 数学、物理、化学、鉱物学などの履修を止めて 直接必要な 憲法学、行政学、ラテン語の勉強に 集中したいという 金子らしい 合理的というか、実利的な考えで、校長 エドウイン・シーバーに 退学を申し出ているが、校長 シーバーは 是非 六月まで留まって卒業すべし、と奨めてくれるが 金子は 肯んじずして 退学する。

 この後、金子は 猛勉強に励む事になるが、憲法学や行政学の他、古典法を学ぶ為のラテン語などの机上の勉強のみならず、裁判所組織や、裁判実務の勉強にも励むため、伝を求めてボストン市内に開業する、ヘンリー・スイフト アンド ラスル・グレイ共同法律事務所に 毎日通い始める。

 

 そして、この年十月 金子は ハーバード法科大学に入学する。

 こうしたある日 文部省の 官費留学生として すでに ハーバード法科大学で学んでいた 小村寿太郎が 下宿に訪ねて来て 留学費用節約のため 下宿の同宿を持ちかける。

 これを諾した 金子は 小村と ケンブリッジ市に一室を借りて 同宿を始めるが、「 同一の寝台に 二人共眠して 大学に通いたり 」と 金子は 回想している。

 図らずも、後の後 日本国 存亡の大国難と言える 日露の戦争時 アメリカにおいて 救国的な働きをする二人が、若き この当時、共に ハーバードで学び 同宿、同衾していたとは、何はともあれ 歴史は 面白い。   

 この頃 ハーバードの在学生では ボートや 野球、室内体操など クラブ活動で 何らかの運動に励む事が 一般的であったが、金子と小村は 相談して、夕方の 五時から六時の間に 一時間、雨が降ろうが、雪が降ろうが、勉強中であろうが、例え 何が有ろうと 市内の散策をする事とし、実行している。

 このおかげで 二人共 体が丈夫になると共に ケンブリッジ市内の地理を熟知出来た、と記している。       

 

 ハーバード入学後、金子は 法学という 修学すべき 学問専科が定まった事もあって、猛烈に 法学の勉強を始めているが、大学の正課として ラングデル学長による 契約論、グレイ教授による 土地法、エイムズ教授による 私犯法 及び 訴訟法、サヤー教授による刑法と 学びながら、正課以外にも ローマ法の研究成果をまとめた ヘンリー・メイン著の〔 古代法 〕、ルイス・ヘンリー・モーガン著〔 古代社会 〕、ジョン・ラボックの〔 文明史論 〕などの修学、研究に 集中的に取り組んでいる。                  

 特に モーガンの学説に付いては、有色人種、取分け アメリカの先住民族であるインデアン種族に対する 明らさまな 白人種の優位性を主張する 人種差別論であるが、この時 金子の受けた影響は、その後も長く 金子の意識の 深層に定着していたものか、晩年 金子自身が回想してまとめた 自叙伝の記述から、本書でも引用している、明治五年 岩倉使節団に同行しての鉄道による アメリカ大陸横断の旅時、 列車が 荒野の停車場に停まった時に見た 近傍の原住民( アメリカインディアンの人々 )についての記述「 其の容貌は野蛮の情態にて銅紅色と真黒の頭髪とは白哲人種に対照して頗る奇怪なり 」と記している事からも、とりわけ大きなものであった事が知れる。     

 

 こうした頃、文部省の 官費留学生 伊澤修二が ボストンから 金子を訪ねて来て、グラハム・ベルという 奇妙な発明家( 金子談 )を紹介する。

 この時、金子は 伊澤に誘われるままに、ボストン市の 北の方の 下宿屋の三階の 粗末な ベルの住居を訪ね ベルが 完成させたばかりの 電話機を見学している。

 ベルは 電話機を説明するにあたり 一方を金子に 一方を伊澤に持たせて 互いに 日本語で会話をさせるが、いずれも 明瞭に聞き取りが出来たと 語っている。  

 この後 曲折を経て、世に普及した 電話機のおかげで ベルは 世界的な大富豪となるが、金子は この時の縁で ベル家とは 終生 親交があり、後々 ベル夫妻が 世界旅行の途次 東京に立ち寄った際に アメリカ公使 バック主催の 政界、財界からの 招待客を集めた 歓迎晩さん会の席上で、ベルは 発明された電話機で 最初に話された外国語は、今日 ここにお見えの 金子司法大臣が 若き日にボストンの拙宅にて 試験通話した日本語である と明し、金子らが ボストンの ベルの寓居を 訪れた時のエピソードを披露して 人々を驚かせている。    

 さらに この後 ベル夫妻の長女が 医師と結婚して 新婚旅行の途次 東京に立ち寄り、金子家を訪れて 歓待されている。

 そして、さらに後 東京駐在の アメリカ領事 コビル夫妻が 金子家を訪ねているが その妻女は ベル夫妻の孫娘であった。

  

 

7 . 学生生活


明けて 明治十年、ハーバード大学 二学年次の 必須科目は 学長でもある ラングデル教授の 衡平法( 実定的な 判例法の一種 )に、エイムズ教授の 訴訟法、サヤー教授の 証拠法の 三科目に 加えて 学位取得の為の 必要単位として 選択二科目が必要であり 金子は グレイ教授の 運輸法 及び 会社法を 選択している。

 また この当時の ハーバード法科大学では 専ら 裁判官や 弁護士などの養成を目的とする科目が主となっており、憲法や行政法、国際法については学ぶ術がなく、金子は 憲法、行政法については 家庭教師について独習し、国際法は ハーバード文科大学の トレー教授の講義を聴いて 学んでいる。

 

 この年、明治十年は 二月に 日本で 西南戦争が勃発している。

 この大きな戦争は、遠いアメリカの東海岸にも 影響を及ぼさずにはいなかった。

 これまで 金子も 何度か面識のあった 九州の旧佐土原藩の 藩主家の三男 町田啓次郎は 米国のアナポリス海軍兵学校に留学中であったが、突然 帰国して 西郷軍に加わらんとしたが、西郷に諭し、拒まれた為、独力で 旧藩の士族を結集して 別働隊を編成し 政府軍と戦って 戦死してしまっている。     

 

 この頃、これまでも 何くれとなく 公私にわたって 金子を援助してくれていた ハーバード大学の法科教授 オリバー・ホームズが この処の 金子の 顔色の悪さを気にかけて、あまりに過度な 勉強ぶりを 少しの間 改めて、勉強時間を少し減らし その空いた時間を割いて、ホームズと共に 所謂 社交界に出入りして いろいろな人々と 交わる事を勧めてくれる。

 こうした事から、金子は ホームズと共に ホームズの父の ハーバード大学 医学部教授で 高名な医学者の シニアー・オリバー・ホームズ家の 晩餐に招かれたのを皮切りに、父 ホームズの 紹介で、前アメリカ下院議長のロバート・ウインツロツフ夫妻の晩餐に 招かれたりしている。

 

 この当時  ボストン近郊に在住の 日本人学生は 金子のほか 小村ら 七、八人の 留学生であったが、少し改まった場へ出かける時に着用する服としては、フロックコート着用が常であり、皆 それしか持っておらず、それで 間に合っていたが、金子が こうした晩餐会に 招かれて行った時、招待客は 婦人は イブニングドレス、男子は 白襟燕尾服を着用しており、恥ずかしい思いをした為、翌日 ボストン一の洋服店で 燕尾服を新調し、その値段が 百ドルと聞いて 同宿の小村が 目を丸くして驚いている。    

 

 また ある日、ボストン在住で 米国 東海岸地区 有数の実業家 アルフェウス・ハーディ夫妻の晩餐に招かれているが、この時 ハーディは、数年前 彼が 経営する会社の 上海とボストンを往復している商船に キャビンボーイ( 給仕 )として乗り込んでいた 日本人の少年を援助して アンドーヴァー神学校に 学ばせていたが、その少年が 今年 卒業して牧師となり、キリスト教 伝道の為 日本へ帰って行った という話を 金子らに話している。

 この少年が、後に 京都に同志社を起こし、近代日本のキリスト教教育に 大きな足跡を残した

新島 襄であった。

 

 

8. ハーバードの学位


 今、筆者の手元に 四人の人物が写った 古い 一枚の写真がある。

 前列に 椅子に座った 二人の女性が写っており、左が 金子らの先生で 高等小学校の教師 ジャセー・アリソン、右が その妹のシャーロット・アリソンで 後列 右に 金子、左に団が写っている。

 

 金子と 団は 二人とも、のちの後 壮年になってからの写真でも 痩身で 蓄えた髭の良く似合う 美男であるが、若き日の この当時も 女性には 良くもてるタイプだった様に想像する。      

 それにしても、この写真を見て感じる事は、特に 金子の場合は この留学時に 多くの つてに恵まれて ハーバードでの勉強の傍ら 当時のアメリカの上層階級に受け入れられ、多くの知己を得られた事の ひとつには 黒田家からの 学資に不自由のない援助と いまひとつには 金子の この外見の良さも 一因ではなかったかと思われる。

 少し 飛躍して考えれば これも のちの後、金子が 日露戦争の終結工作を アメリカで行っていた折に、それらに 大きな支援の手を差し伸べてくれた アメリカ大統領 セオドア・ルーズベルトをはじめ、多くのアメリカの要人たちは、ほとんどが 金子が この当時 個人的に培った人脈に連なる人々であり、この工作の成功が 日本を国難から救った要因の一つと考えれば、金子の外見、容貌の良さと いろいろな面での 並外れた高い能力に 日本は救われたと云えるかもしれない。

 

 実際、金子に対しては 厳しい論評を課している 司馬遼太郎氏でさえ その著書の[ 坂の上の雲 ]に 日露戦争の終結工作で 共に 伊藤博文に請われて アメリカに行った 金子は成功し、イギリスに行った 末松謙澄は 失敗に終わった要因を 金子、末松の 外見、容貌の美醜に その一因があったかもしれない と書いている。

 

 この当時、金子が どの様な意図を持って、米国の上層階級の人々との交流に 積極的に関わり、後々 大変な財産となる 幅広い人脈をつくっていったのか、その理由は 定かでないが、はっきりしている事は、度々 触れる様に のちの後、金子の日露戦争 終結工作時に、これらの人脈が 大きな役割を担っている点は、見逃す事の出来ない事実と思われる。

 翌 明治十一年、年が明けて 金子は 小村と偶然に、二人とも 昨年の暮れから 目を患い 眼科を受診したところ、二人とも 医師より 夜間の読書を 厳禁されてしまう。

 この当時、まだ 電気照明は 普及しておらず 夜間の照明は 灯油ランプが 一般的で 少ない照度に夜間の読書は 目に大きな負担をかけるため 目を患う学徒が多かった。   

 これによって 金子は 昼間は 大学の勉強に集中し、夜は 昨年より ホームズの勧めで出かけていた 社交界への出入りを 続ける事とし、小村にも 誘って勧めるが、小村は 英語があまり得意でなく また 交際嫌いで 夜は 下宿屋の姉妹と トランプ遊びに興じていたり、部屋に閉じこもって 読書をするのが 性に合っていたという。

 ある夜、金子が 遅くに帰ると、部屋に灯りが無く ランプに火を入れると、部屋の隅で 小村がカウチに 横臥しており、何故か聞くと 昼間読んだ 難解の書物について考えるには 暗中に限るとの答えで、金子は 改めて 小村の 勉強熱心さを知った と語っている。

 この年、六月 金子は 卒業試験を控えて 猛勉強に明け暮れるが、試験は 無事 通過して 卒業式の当日 大学総長より 法律学士( バチュラー オブ ロー )の学位を授かる。

 


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秋霜烈日の人(5)第三章 明治十一年 帰国へ