序 章 秋霜烈日の人
江戸の末期、嘉永六年は 癸丑( きちゅう )の年でありました。
この年 六月、相州浦賀に四隻の黒船が来航しています。
アメリカ海軍の ペリー提督率いる、東インド艦隊のフリゲート艦 サスケハナ号を旗艦とするフリゲート艦二隻、軍装帆船二隻の 計四隻が 江戸湾口 浦賀に来航したのであります。
二隻のフリゲート艦は これまで ほとんどの日本人が見た事のない 黒塗りの外輪蒸気船で、濛々と黒煙を上げながら 他の二隻の 軍装帆船を曳航して 江戸湾を航行する様を見た 江戸の人々は 「 泰平の眠りを覚ます上喜撰( 蒸気船 )、たつた四杯( 四隻 )で夜も眠れず 」と 狂歌に詠っています。
物情騒然たる中、日本は 近代へ向かって 幕末がスタートした年でもありました。
少し後 文久、元冶のころになって、京で活動していた 勤皇脱藩の浪士たちの間で 「 彼のお人は 癸丑の人なれば ・・・ 」と云う様な 言い様があり、 癸丑の年 即ち 黒船来航の頃からの 古い志士歴の人、という様な言われ方をしていた様でありますが これは 余談。
さて、この癸丑の年、すなわち嘉永六年生まれのひとりの人物について書きます。
もう30年程も前、私が 日本の近代史を学んでいた頃、この近代史のなかで まことに興味深いひとりの人物に 出会っております。
それは、日本の近代国家形成期に大きな足跡を残した 官僚政治家 金子堅太郎であります。
私は、この金子ほど 歴史上の人物として 評価の分かれる人物も珍しいのではないかと思っております。
金子堅太郎と言えば、当の本人よりも有名になってしまった 北海道開拓意見の中で述べた一文 「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば ・・・ 」によって、血も涙もない 冷酷 無慈悲な 二流政治家の 烙印を押されている一方で、若くして その学才を認められ、米国 ハーバード大学 留学の機会を掴み、帰国後は官途に就いて 伊藤博文の下、大日本帝国憲法の制定に尽力し、農商務大臣、司法大臣を歴任し、また 後の 日本大学となる 日本法律学校の 初代校長を勤めたりした後、国難とも言える 日露戦争下では 伊藤博文の命を受けて アメリカにわたり 対露終戦工作に 救国的な働きをしている という、何とも 不思議な人物なのであります。
この様に、評価が 肯定的な光の部分と 否定的は影の部分の存在する 金子堅太郎という人物の実像は、果して如何なるものであるかを、私は 特に その前半生を 具( つぶさ )に眺める事で、いくらかでも 詳らかに出来れば と願って 本書を認( したた )める事としました。
金子堅太郎は、幕末 嘉永六年( 1853年 )の生まれで、没年は 太平洋戦争勃発の 翌年 昭和十七年( 1942年 )と 当時としては、大変な長寿の 89歳を 全うしており、その長い生涯は 正に 日本の近代たる 幕末から 明治、大正、昭和の 近代国家形成期に重なり、その足跡は 日本政治の中枢部に 大きく残されています。
また、大変な秀才であり、且つ 有能な人物で、その才と能が 近代日本の 国家形成期と云う 時勢の求めに あたかも ジグソーパズルに埋まる ピースのごとく 鮮やかに 合致していたのではないかと思います。
そして、金子の場合 維新後の明治新政府における 薩長土肥の 藩閥政府において、およそ 藩閥や 門閥には無縁の 九州 福岡の黒田藩において 士農工商の身分的にいえば 士と農の中間くらいと云うか、三代前までに 新田の開発で得た自作の農から、株を買い取る事で得た士分を、父の死後の金子の相続時に一時失ってしまうような事が有ったり、という様な、士といえども実に不安定な出自ながらも、その才を旧藩主家の黒田候に見い出されて、米国のハーバード大学留学の機会を与えられた事から、その才能を開花させるための緒を掴んでいます。
ハーバード大学の法学学位を取得しての帰国後は、近代日本の未だ漠々( ばくばく )たる 官界に職を得て後、その才と能を遺憾なく発揮して、官界のみならず 学界、思想界にまで 大きな足跡を残しており、さらに政界に転じてからは、遂に 農商務や 司法大臣にまで上り詰めながら、金子の特異さは 若干、伊藤博文との関係に濃密な部分が見られるものの、決して 誰か有力者の閥に入ってその引きを頼る、と言う様なところが無く、常に己が仕事に対する評価のみを求める事で、 己が属する社会に重きを成していた点にあります。
私は、前にも述べましたが、金子の 光と影の部分を考える時、同時代の人物で、金子によく似た経歴を持ちながら、全く対照的な人物像を持つ清浦奎吾という人物を、比較、対象に 考える事があります。
ここでは、本題である金子堅太郎の人物像を、より明確に浮かび上がらせて比較に供する為に、清浦奎吾に付いて少し書きます。
清浦圭吾
九州は阿蘇山の外輪の西側に独立峰の鞍岳という山が聳えています。
菊池川は源流をこの鞍岳の東、オケラ山( 実在している )に発して、名勝の菊池渓谷を下りながら北へ向かい、菊池高原の西で大きく南に向きを変えてさらに下り、菊池市街の東側を通って西進し、来民(きたみ)の南で 迫間川、合志川と 合流しています。
来民は、熊本県鹿本郡の温泉の町として知られた山鹿という街から東へ一里程の所に有り、後に明治になってから 山鹿新町と呼ばれた聚落で、そこから さらに北へ八町程の所に、明照寺という一向宗のお寺がありました。
嘉永三年二月一四日は旧暦で、新暦では1850年3月27日、清浦圭吾はこのお寺の五男として生まれています。
父親は この寺の住職で 大久保了思( りょうし )、母は幸(さち)。
父親の了思という人は、仏学の他にも皇典や漢学を修めて 土地の子弟に、読書や習字を教えながら、法道を説き、また仁義忠孝の道を講じる村夫子であり、謹厳な人でもあったようです。
父親にとって子供も五人目ともなると、感慨という様なものは少ないものの、やはり行く末、幸多かれとは思い、以前から考えていた 普寂 という名前を与えました。
普 :( あまねく )
寂 :( 涅槃( ねはん : 世の中の悩みや苦しみを去って 落ち着いた静かな境地 )に入る )
という様な意から 漢学の素養を持つ仏教人としての父親が見えてきます。
幼名 普寂、後に清浦家に養子となって入り、名を改めた清浦圭吾は、元治二年( 1865年 )15歳にして豊後日田の咸宜園( かんぎえん )に学んだ後、明治五年 22歳で上京し、咸宜園時代に知遇を得ていた 当時の 日田県令( 県知事 )で この時 埼玉県令となっていた 野村盛秀を訪ね、野村の薦( すす )めで 埼玉県庁へ奉職したのを皮切りに 官途に就き、後 司法省に移り 司法官僚としての道を歩きながら 遂には 司法大臣から、第23代 総理大臣に上り詰めた人物です。
清浦も また 大変な秀才であり、且つ 有能な人物で、金子同様 司法官僚として 藩閥、門閥がものをいった 明治の政、官界において 凡そ これらとは無縁の存在ながら その 才と能で 政、官界に重きを成し、奇しくも 没年が 金子と同年の 昭和十七年( 1942年 )で、92歳と 金子同様に 大変な長寿を全うしております。
金子と 清浦の相違点を考える時、実に興味深い 対称的な人物像が浮かび上がってきます。
先ず 金子の場合、本書の第一章以降に具に認( したた )めた 前半生のごとく、類い希な秀才の上、とにかく 真面目で 勤勉、実直な性格で 自分に厳しく、他にも厳しい まさに 秋霜烈日( しゅうそうれつじつ )の 気概を持った人物像が 見えて来ます。
一方で、清浦も とにかく 秀才 且つ 有能な人物であり、若き日の 日田 咸宜園時代も 首席を通して 塾頭たる 都講を務め、この時に知遇を得た 初代 日田県令 松方正義、同 二代目 県令 野村盛秀らの薦めを得て 官途に就くや、埼玉県庁時代から 司法省に転職後も、その才を遺憾なく発揮し 順調に出世の階段を上っていきますが、清浦の場合 性格が陽性で
類い希な有能さと 人柄の良さから 周囲に愛され、ほぼ 順風満帆な状況で官途に就いており、他を憚り措く( はばかりおく )様な 急な出世にも 周囲から 妬み、嫉みを受ける事が 少なかった様で、実に 好ましい人物像が見えてくるのであります。
さらにもう一点、金子と清浦の対称的な相違点として、金子は 先述の様に、一貫して何れかの有力者の閥に入って その引きを頼ると云うところが無く、一方で 清浦は司法省の少壮官僚時代より、当時の長州閥の有力者、山縣有朋の閥に入って、その側近的な存在から、後には 山縣閥の後継者的な存在となっています。
余談になりますが、今少し 清浦に付いて。
清浦の 司法省 任官時は、日本が近代法治国家として 国内法の整備を急いでいた時期に辺り、司法省において 刑法 制定のための調査と、これに対応する 治罪法( ちざいほう:刑事訴訟法 )の 制定調査を行っており、清浦は 著名な 当時のお雇い外国人、仏人 ボアソナード博士のもとで フランス法を学びながら 治罪法の制定調査に従事しています。
こうした 清浦の経歴から、彼の人物像を探る上での 幾つかの逸話があります。
ひとつは、埼玉県庁に奉職時 初代の野村県令 急死後、第二代 県令となった 白根多助の下で、白根の純粋な人道上の配慮による 埼玉県の無娼県化( 県令 白根は、公娼制度に付いて これを否定し 厳しい姿勢を貫き 一時 埼玉県における 公娼の廃止に成功している )を 白根の下僚として その実務に関りながら 目の当たりにしている事。
また、司法省において、ボアソナード博士の下で 治罪法の制定調査を行っていた当時、司法省は 東京の丸の内にあり、ボアソナード博士の宿舎もこの近くにあった様で、ある日の朝 博士の散歩中に何処からともなく 異様な人声が聞こえて来た為、これを怪しんだ博士が人に調べさせたところ、近くの 警視庁の留置場からで、取調中の被疑者の 自白を得るための拷問による悲鳴と分かり、博士は その非人道的な後進性を指摘して、即刻 これを停止すべき旨、担当部局に申し入れており、博士の指示の下 清浦らの尽力によって、この後 取調中の被疑者への 拷問が廃止されています。
こうした 幾多の経験が、多感な青年時代の清浦の思想形成に 大きな影響を与えた事は 想像に難くないと思われます。
この後、清浦は 内務省に移り 内務大臣 山縣有朋の下で、明治十九年 36歳の若さで 内務省 警保局長( 警保局は 現在の警察庁に相当 ) 兼 監獄局長に抜擢されています。
そして、清浦は この後 人道的な見地から 司法行政における行刑制度の改革に尽力し、監獄囚徒の処遇改善のため 監獄則の改正に努め、遂に 明治三十二年の 第三回監獄則改定で それまで 北海道と 九州の集治監( しゅうちかん:明治期の大規模刑務所 )で 悲惨を極めていた 囚人の外部への出役( しゅつえき )強制労働廃止を 成し遂げています。
一方、金子は ハーバード留学から帰国して 元老院に奉職後、その有能さを発揮して 順調に昇進を果たしながら、この当時 全国の有志より 国会開設 並びに 条約改正に関する建白、請願が 盛んに 太政官、元老院に 提出されており、これら 建白と請願の差別、受領すべき官庁、受領の手続きなどを定める事 などを手際よく処理して、手腕を発揮しています。
また、元老院 副議長 佐々木高行の命を受け、この頃 自由・民権論者の間で 頻りに 持て囃されている、仏人 ジャン・ジャック・ルソーの〔 民約論 〕に対抗して、保守・漸進の立場から 学説を論ずる、英人 エドモンド・バーグの著書とその要論を 一書にまとめた、有名な〔 政治論略 〕を 書き上げて 元老院に提出しています。
その後、明治十七年 32歳にして、太政官 及び 元老院 権大書記官( ごんのだいしょきかん : 大書記官代理 ) 兼 制度取調局 御用掛( ごようがかり )として 伊藤博文の下 大日本帝国憲法の制定調査に従事していますが、その 翌 明治十八年、折しも この当時 重要な国策としての 北海道開拓事業が その非効率から行き詰まり 大きな政治問題となっていた事を受け、参議 伊藤博文の命により、約70日間に及ぶ 北海道巡視を行い、帰京後 太政官 及び 命令権者の 伊藤宛に〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開拓建議七箇条 〕( 本文、第四章 復命書の 三.に詳述 )を提出しています。
そして この内の、〔 北海道開拓建議七箇条 〕の 第二条 道路開鑿の議 に おいて、金子は北海道開拓においては、物流の要となり、最重要課題の一つといえる 道内の道路網の 開鑿事業に付いて 人跡未踏の 密林伐採や、険阻な山嶺の平坦化、河川谷地の排水、架橋など、著しい 難工事となる事が想定され、一般の工夫では その労役に耐えざる可能性もあるに付き、札幌県下の 樺戸集治監( かばとしゅうちかん )及び 根室県下の 釧路集治監に収容している囚徒を この労役に服さしめる事を提案し、さらに これらの 囚徒は、固より暴戻の悪徒に付き、過酷な労役に堪えず 斃死する場合も、一般の工夫が 妻子を残して 山野に屍を晒す惨状とは 自ずと異なる事、また その 日当賃金も 一般工夫に対して 集治監の 囚徒ならば、その半額以下に 抑える事が可能である事と、今日 多数の重罪人を収容する集治監において その囚徒を 道路開鑿の 過酷な労役に服さしめる事による 斃死などで その減少をみる事は、莫大な国庫からの支出となっている 監獄費節減となる事でも有り、一挙両全の策というべし と 述べております。
そして、この事により 金子堅太郎 =「 彼等 固より暴戻の悪徒なれば 」の 烙印を押され、一部に 金子と云えば 血も涙もない 冷酷 無慈悲な 二流政治家の評価が定着して 現在に至っております。
ここで、明治期の集治監制度に付いて、 少し書いておきます。
維新後、明治初年より打ち続いた国内の騒擾事件から、明治十年の西南戦争終結までに、一般の罪人に加えて大量の国事犯が発生し、これらの囚徒を収容する施設の造営が必要となった明治政府は、集治監制度を創設し、既設の東京小菅監獄署を東京集治監とし、仙台の宮城県監獄を宮城集治監として改めて開設し、これらの大量の囚徒を収容していましたが、明治十一年一月 元老院に於いて「 全国の罪囚を特定の島嶼に流し総懲治監とす 」とする決議を行い、その具現化に着手していました。
元老院決議に有る特定の島嶼とは、当時未開の北海道を指しており、本土から海を隔てた 北海道の地に 流刑、徒刑 5年以上、及び 無期刑の 重罪囚を 隔離、収容する施設を造り、これらに収容した囚徒を 北海道開拓の労働力として活用する事を意図しており、さらに 刑期の満ちた免囚を 定着させて 自力更生を図らせる事で 人口希薄な 北海道の開拓に 寄与せしめる 狙いもありました。
こうして、明治十四年九月 北海道の 集治監 第一号として、札幌県 石狩郡 須倍都太( すべつぶと )の地に 樺戸集治監が開設され、後に 順次 空知、釧路、十勝、網走と 各地に集治監が 開設されていきます。
これら、集治監の 特に 監外への出役における 惨状の記録が残されており、例えば 初期の樺戸集治監では、厳寒の冬季に 防寒具を与えずに 素足で雪中の 耕地開墾、木材伐採などの屋外作業を強制して 多くの犠牲を出した事や( この辺のところは 吉村 昭氏の〔 赤い人 〕に 詳しい )、空知集治監では、近くの 幌内炭鉱での 採炭 出役労働が強制されて、暗黒の地底監獄と恐れられ、釧路集治監では 屈斜路湖畔の 跡佐登( あとさぬぶり )硫黄鉱山において、手掘りによる 硫黄採掘が強制されたため、亜硫酸ガスにる 失明者、呼吸疾患者が続出するなどの、多大な犠牲が出ておりました。
具体例として、空知集治監における 幌内炭鉱の 採炭出役で、明治二十六年の 法学者 岡田朝太郎の 視察報告が残されています。
岡田は 東京帝国大学法科大学で教鞭をとる 若き 刑法学者で、この年 司法省の委嘱を受けて 北海道の 集治監 視察を行っています。
この 岡田報告によると、この年 明治二十六年当時、空知集治監から 幌内炭鉱の外役所( そとやくしょ )へ出役し、採炭に使役される 囚徒の数は 常時 約一千人ほどで、坑内の採炭作業に伴う 死者を除く 負傷者数が、明治十六年が 79人、十七年が 253人、十八年に 395人と 年々増加し 遂に 明治二十五年には、実に 1595人と、夥しい数の負傷者を出している状況にありました。
また、岡田報告では 明治二十六年夏の 空知集治監 監内の状況に付いて、それまで 幌内炭鉱 外役所への出役中に 坑内の落盤、ガス爆発などの事故で、夥しい数の死者を出していた他、負傷で 失明や不具などの 廃疾となった者が 二百六人おり、片手の無い者、或いは片足の無い者が 集治監内を徘徊して 軽役な作業に就く様子や、また 50人以上の 盲目の囚徒が 一か所に整座して 綿に付着する 塵芥の選り分け等の 軽作業に就いており、夕暮れ時には 手の無い囚徒に導かれて、杖にすがる片足の囚徒や、盲目の囚徒らが、前者の帯に縋って 獄舎へ帰っていく様を見て 酸鼻の情に堪えず と記し、さらに 岡田は 集治監 囚徒の採炭出役は、懲戒の限界を超えた 死の懲役であるとして、その労働条件の緩和を強く訴えています。
清浦、金子の二人は 実によく似た経歴で、日本の近代国家形成期に 大きな足跡を残しており それぞれが この日本の 困難な時期に 実に広範な分野で 活動の実績を残していますが、特に司法行政における 行刑制度改革の中で 集治監制度の 囚徒処遇問題に対する対照的な関り、例えば 金子に付いては、彼の 秋霜烈日的な 主義主張と、超の字が付く程の 合理的な考え方からすれば、国策遂行のために 獄囚に対して 苛烈な外部出役労働を強いる事を求めて、明治十八年の〔 北海道開拓建議七箇条 〕において「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば 」などと 述べている事も 金子なればこそ 宜( むべ )なるかなと 思われますし、一方で 清浦は、官途に就いた若き日より、埼玉県令の白根多助や 司法省で治罪法 調査時の ボアソナード博士らの 人道主義的な薫陶( くんとう )を受けて後、先述のごとく 内務省 警保局長 兼 監獄局長として 囚徒処遇の改善問題に取り組み 後には 司法大臣として 遂に 監獄則の改定を行って 囚徒処遇問題を大きく改善させています。
この様に 二人の有力司法官僚によって企図された 対照的な行刑政策によって 大きな影響を受けた北海道、九州の集治監( 九州では、三池炭鉱における採炭労働が強制され、多くの犠牲者が出された 三池集治監がありました )の 現場の人々や、延十数万人にも及ぶと考えられる 当該の囚徒たちに付いては、別の機会を求めて 世に問いたいと考えています。
さて、そこで 何故に この二人の秀才司法官僚の、こと この行刑制度の改革問題について この様に対照的な関りを持つに至ったか について考える時、私は 二人が学んだ 法学という学問に 根本的な相違が有った様に思います。
清浦は ボアソナードの下で 実学としての法学を学び、金子は ハーバードにおいて 学問としての法学を学んだ、その結果が 大きく影響しているのではないか と考えています。
そして、金子の場合、例えば お茶の水女子大の 藤原正彦先生( 〔 国家の品格 〕の著者 )の品格の問題流に考えてみると、欧米の法学を 学問として学んだ結果、すべての行動規範に於いて 論理、合理を 至上としており、これは 元々 金子の持っていた性向にに加え、多感な 七年間の青少年期を アメリカのハーバード留学で 学問としての法学を 集中して学んで 過した事によるのかと思います。
さらに 金子に付いて、例えば 有馬温泉の湯治の帰路に遭遇した、人力車夫とのトラブルにおいても その処置は 妥協を許さず、不条理なものに対する 秋霜烈日の気概が見え( この 車夫らとのトラブルについては 本文 第三章の 五、に詳細を記述 )、この様な 金子の根本思想から考えれば 先述の〔 北海道開拓建議七箇条 〕の 一文「 彼ら、固より 暴戻の悪徒なれば 」に付いても、なんら非難を受ける筋合いのもので無い として、例えば 後年の 司馬遼太郎氏等の 人道的非難など、直接 金子が聞いていたとすれば、一喝して 論駁したのではないかと思います。
また この点に付いて私は、金子にしてみれば明治十八年に「 彼ら、固より 暴戻の悪徒なれば 」の一文を含む 〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属〔 北海道開発建議七箇条 〕を 太政官 及び 伊藤参議宛に提出した時も、後の大正五年に この 復命書 及び 建議七箇条を、復刻、再刊せしめた時、そしてさらに、子爵に叙せられて 枢密顧問官の職に有った 大正十四年夏、北海道庁 開設四十周年記念式典に寄せて〔 北海道庁設置の沿革 〕の一文を寄稿した時期においても、これら 金子の秋霜烈日的な 気概は、些かも変わっては いなかったのではないか と考えており、本書において 金子の生い立ちと その 前半生に、多くの紙片を割きましたのは、この辺を審らかにしたかった事に有ります。
本書においては 金子の出生からの前半生を 具に眺める事と、その残した 数々の事績の中から 先ずは 官途に付いてから〔 政治論略 〕を執筆して 思想界に大きな影響を与えた点、また 現 日本大学の前身たる 日本法律学校の初代校長として 日本の学界、特に 法学教育に残した事績、 さらには 先に上げた 有名な「 固より彼らは暴戻の悪徒なれば 」の一文を含む、〔 北海道三県巡視復命書 〕及び 付属の〔 北海道開拓建議七箇条 〕を 政府に提出して、後人に 北海道の開拓憲法とまで言わしめている事などを 詳細に眺める事で、未だ 謎とも言える部分の存在する 金子の歴史的な評価に付いて、本書拙文が些かなりとも光を当てる事が出来ましたならば、まことに 幸甚に存じます。
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